思考メモ

  • 風通しを良く。(視野を狭めて安定させるのが新興宗教
  • 斎藤環さんは非常にフランクな人だが、患者さんとは絶対にプライベートな人間関係を持たない。実はこの点、僕はずっと悩んでいた。訪問活動に行く、あるいはご本人から直接アクセスがある。そのとき、果たしてどういうスタイルで人間関係を作ればいいのか。僕は当初、訪問活動というものがいかにも「仕事でやっている」ものでしかない、それでは当事者本人にとっての「本質的な出会い」にならない、それでは意味のある展開は生まれない、と思い、いわば僕とご本人の間に、あるいは僕が紹介した人との間に、本物のプライベートな出会いが生まれないといけないと思っていたし、それをやろうとしてズタズタになってしまった。自腹を切って一緒に呑みにいったりもした。逆に、親からお金をもらっているのに、本人には言えないまま外で会ったこともあった。要するに「仕事」と「プライベート」の境界線をどう設定したらいいのか、それが全然わからなかった、これは非常に苦しい状態だ。その線引き、ケジメの付け方を、工夫しなければならない。
  • 「支援」という言葉は、親たちに対してこそ言えても、本人に対しては不適切なのではないか。僕はどうも、「この人は面白いことをしている」というアクセス欲求に賭けるより以外ないと思う。
  • 「社会復帰」という言葉は、「社会」を、「そこに向けて適合してゆくべき完全なもの」としている点で難あり。「復帰」ではなく、まずは「参加」だろう。金を儲けているかどうかはともかく。「参加」には、それだけで緊張感がある。このはてなダイアリーのように。
  • 他者の言葉に振り回されすぎる。僕は生身の人間を目の前にすると、いつの間にか過剰に饒舌になって、ホトホト疲れ果てる。いったい何をしているのか。あるいは、文字に関してもそうだ。「はてな」はとくに相互性があるから、他の人間の言葉が自分の中に入り込んできてパニックになりやすい。そういえば、あの時自殺したあの人は、極端に周囲の人間の言葉に振り回されていた。それは適度に「秘密」を持てない状態でもある。誰にも受容されなくても、勝手に生きていけばいいのに。
  • 真にモチベーションとなる欲望は、「コッソリ」抱かれるものだ。男の子にとってのエロ本がそうであるように。母親の買ってきたエロ本は、どんなに良さげであっても破り捨てられる。
  • 「くだらねぇ」と言って乱入するビートたけし
  • ひきこもりを悪く言う人は、「親の金でいい思いをして」云々という。しかし、ものすごい大金持ちで、親にマンションや高級外車を次々に買ってもらっている元気な大学生は、悪く言われない。ひきこもりを悪く言う人は、要するに自分も引きこもりたいのだ。「あいつらだけいい思いしやがって」。嫉妬は、自分と似ている人間に向かう。
  • ひきこもりというのは、極端な「フィクション親和性の低さ」によって特徴付けられないだろうか。もちろん、アニメや漫画が好きな引きこもり当事者もいるだろう。エロゲーの好きな滝本竜彦氏の例もある。でも、僕自身はひとまず、自分のあまりの「フィクション親和性の低さ」に辟易している。そしてこれは、どうも「生きるつらさ」に直結しているような気がする。人と付き合って、あるいは仕事をして、それを「楽しい」と感じられる人と、極端に苦痛と感じる人が分かれるメカニズムのヒントがそこにないか。あるいは、「ハマる」ということ。何かにハマることができれば楽しかろうが、他者の言葉に振り回され、自分の存在の根っこを常に<現実>におびやかされている、と感じている僕は、フィクションに付き合うことがひどく困難だ。「ハマる」と言っても酒に溺れたぐらい。酒をやめて3ヶ月たった僕は、じょじょに「言葉」との関係において「ハマる」を模索している。
  • 現実逃避があまりにも下手であるがゆえに、常に四六時中<現実>に付き合っているがゆえに、逆にまったく何も手につかず、極端に「現実逃避的」に見える人々。「自分の努力と人生はこれでいい」という認識――その自己説得は根本的にフィクショナルな構造を持っていないだろうか――を作るのが極端にヘタな人々。
  • ひきこもりの人がよく使う「最底辺の仕事」という言い方(この問題はNHKでは語れない)。いわゆる「肉体労働」の現場が持っている独特の文化や人間関係へのおびえ(それは極端に偏差値の低い学校に行かされる恐怖に似ている)。自分のやっている仕事に対する「承認」を自分の中で設定することがとても苦手。何をやっていても「これでいいのか?」という葛藤に忙殺され、生産効率はどんどん落ちる。苦痛はいや増す。
  • 「現実を現実でなくしたい」というあの欲望は、「現実をフィクションにしてしまいたい」ということであったろうか。でも、その一方で、たとえば僕の性欲は<現実>の方に向いている(二次元キャラには萌えられない)。
  • 関わりたいと思っていなくても、「関わってしまっている」ことがある。僕は今回の東京行きまで、「ひきこもり」に関わることにウンザリしていた。少なくとも今回、「自分がいちばん羽をのばせるフィールドはここだ」と思えた。ひきこもりだけに関わっていると死にそうになる。僕にとっては「現実逃避」とか「現実を現実でなくすこと」とか「ハマること」「フィクション親和性の低さ」といったことが決定的テーマだけど、もう少し落ち着いていこう。
  • 精神保健福祉士は、「今なる人がそのままパイオニア」だという。できたばかりの資格で保証はないが、そのぶん自由度が高いということだろう。
  • 斎藤環氏の本については、僕も徐々に反論の萌芽を自分の中に感じつつあるが、少なくとも議論のテーブルをしっかり用意してくれたものであるという点で、やはり基本参照図書だと思う。批判があるとしても、本気でこのテーマに付き合おうとするなら、いったんは全て通過しておくべきではないか。
  • 東京の「考える会」の最終回講師である森岡正博http://www.lifestudies.org/jp/index.htmの「無痛文明論」。痛みを回避していくと同時に、よろこびもない人生。「現実」と「フィクショナルな自己温存」の間。