弁証法?

アイデンティティ」は、差別の温床になり得るし、個人の自由を制限する機能をも持ち得るから、否定すべき。

  • 「○○のくせに!」【カテゴライズゆえの差別】、 「お前は○○なんだから、××でなければならない」【逸脱しないよう、いつの間にか縛りをかけている*1】、 など。


しかし、ひきこもりやニートというカテゴリーを、単に「恣意的・差別的に構築されたもの」として否定し、≪当事者≫がバラバラになってしまうと、現実の差別や排除を生み出す構造が温存される。

  • 「引きこもっている」あるいは「かつてそういう状態にあった」ことを隠さねばならない ―― さもなくば差別される ―― という状況は、みんなが「隠す」ことを続け、各人が(お互いに気付くこともないまま)分断され続ける限り、なくならない。 ≪ひきこもり≫というカテゴリーによる自己規定を 「忘れよう」 「無視しよう」 とするだけでは、≪ひきこもり≫への差別的な待遇は、改善されない。 当該各人が「ひきこもり」というカテゴリーを身に引き受け、その上で ―― できれば協力し合って*2 ―― 「差別的暴力」と戦う必要がある。
    • → 「自分をアイデンティティに縛りたくない」という上記テーゼと矛盾。


だから、差別的かつ拘束的なカテゴリーを否定しながら、そのカテゴリーに依拠して運動とアイデンティティを展開せざるをえない。

  • 「ひきこもり」「ニート」が差別的蔑称として存在するとすれば、そういう差別的カテゴライズには抵抗せねばならない。 しかし、「ひきこもり」等のカテゴリーそのものを拒否し否定してしまうと、差別的排除の実態を問題にし、現実の暴力に抵抗することそのものができなくなってしまう
    • → 「ひきこもり状態を脱し、命の危機を回避するにはどうしたらいいか。そのための方策は」と、≪ひきこもり≫という状態像に留まることを否定しながら、同時に「ひきこもる権利は認めるべきだ。それは犯罪ではない」と、≪ひきこもり≫という状態像への差別的・排除的暴力に抵抗しなければならない
    • こうしたアクロバティックな言動は、≪ひきこもり≫というカテゴリーを設定することなしにはあり得ない。 → 「差別的」というのとはまったく違う、「より柔軟で抑圧的でないような運動とアイデンティティ」(戦術的アイデンティティ*3が必要。








*1:いわゆる「偽ヒキ」問題が典型。 → こちらこちらを参照。

*2:ひきこもりの当事者は「人間関係を作れない」ので、≪一緒に闘う≫のが極端に難しいのだが。 ちなみに、何人かの知人から、「ひきこもりには親の会という圧力団体(?)があるから叩きにくいが、ニートにはそれすらない、だからマスコミに言われ放題なのではないか」という声を聞いた。 なるほど…。

*3:上記引用文より