去勢否認の装置としての、「当事者の絶対化」

その断念は、「私の一番大切な核の部分」(p.188)について、無条件に《存在》として肯定されることをあきらめることで、過去の自分をも、対等な交渉関係に巻き込むこと*1。 社会参加できない子供時代の自分(私の一番大切な核の部分)を《存在》として絶対化してしまえば、私はその存在を、対等な対話・交渉の相手とは認めていない。 それは存在=物であって、他者ではない(参照)。*2


「無能力者」や「不可視の他者」を絶対化する人たちについても、同じことが言える。反論しないことによって至高の参照対象にされる他者=当事者は、その本人が「反論した」瞬間に絶対的参照項としての地位を失い、むしろ「反革命」として粛清の対象になったりするのは、左翼の歴史では繰り返されている。無能力者の絶対化は、あまりに安易な「権力標榜の装置」だ。そこでは、「無能力者=当事者」の言葉は、存在として肯定されるのであり、対等な言葉ではない。弱者/コドモ/病者の言葉として隔離化=存在化されており、対等な反論権限を持った言葉としては扱われていない。





*1:斎藤環は去勢について、「存在そのものの所有の断念を、存在論的な根拠に据えること」と語っているが(参照)、これは、孤立した個人が、他者との対等な関係の中で社会的な位置づけを得るプロセスを描いているのではないか。交渉・契約関係において対等な位置づけをもらわないかぎりは、人間個人は、自己の社会的正当化がうまくいかない。

*2:ここで、ジジェク天皇論を思い出さずにいることは難しい。 【参照】:『ルプレザンタシオン(3)』掲載「The King is a Thing (王はものである)」、『批評空間 (第1期第6号) 共同インタヴュースターリンからラカンへ』など。 これらの立論において「王=天皇」は、対等な交渉権限を持った主体ではない。

「内容面への保護」/「存在面への保護」

これは具体的には、法律行為ができるか否か、あるいはその発言が論文等の執筆主体として承認され得るか(社会的な手続きに乗り得るか)で問われ得る。 たとえば未成年者や精神障害者は、単独では法律行為を行なえない(参照:「制限行為能力者」)。前記「当事者研究」の引用部分で貴戸は、精神障害者の活動拠点である「べてるの家」を参照しているが(参照)、行為能力に法的な制限を持ち、それゆえ制度的にも保護され得る*1存在は、いわば言葉としての対等な権限を奪われる代わりに、存在としての肯定を得ている
「コドモであり続ける」ことを主張する貴戸は、瑕疵のない意思表示を行なう交渉権限を持っている(子供ではない)にもかかわらず、その発言内容に対して、制限行為能力者と同じ保護を求めているように見える。【内容面への保護と、存在面への保護とがショートしている。制限行為能力者として存在面を保護されれば、内容面は対等には扱われない。対等な権限者として内容面を対等に主張すれば、存在面の保護は受けられない。】
十全で対等な交渉能力と交渉権限(参照)を持つ貴戸が、その主張の内容面についてのみ、「不登校当事者だから特別に扱ってほしい」というのは、不当な特権主張にあたる。貴戸が政治的な主張者として対等な権限を要求するなら、発言内容はやはり対等に吟味される。


発言が「コドモとして」為されたものなら、主張者としては対等な扱いは受けない。――具体的な経験を挙げておく。「ひきこもりの経験者」として親の会などで発言を始めた私は、ある親の集まりにおいて、手招きをされつつ

  ボク、(こっちこっち)

などと呼びかけられた*2。すでに30歳を越えていた私は、「ひきこもりの当事者」としての発言を尊重されつつ(保護されつつ)、それはいわば政治的には、「コドモ扱い」でしかなかった。逆にいえば、コドモ扱いされることにおいて、ようやく私は権利を得ていた。
私が対等な扱いを希望するなら、発言内容についても、特権的な保護はあり得ない。ここで言っているのは、そういう話だ。弱者としての原典性を減じれば減じるほど、議論の相手としては対等と見なされることになる。





*1:参照:「日本の精神障害者と障害年金制度

*2:当時の私は丸坊主で、夏の暑い盛りにTシャツにジーンズという格好だったから、より幼く見えたのかもしれない。

主意主義/主知主義

そこまで論じた上で、次の件を再引用しておく。これは今後の課題だ。

 自分自身は、安全な場所に立って、犠牲者たちに同情し、彼らに理想を投影することの欺瞞性が、議論を弛緩しきったものに見せていたのです。言語行為論の用語を使えば、これは執行的矛盾の一種と見なすことができるかもしれません。言い表された内容と、言表行為そのものの発話内効力(の含意)の間に、矛盾があったわけです。このように考えると、姜さんの発言にのみ、「アウラ」が宿っていた理由も容易に理解できます。 大澤真幸山之内靖に宛てた手紙、『再魔術化する世界―総力戦・“帝国”・グローバリゼーション』掲載)

当事者性のメカニズムが違うから、「コドモ扱い」されていないのは当然として、姜尚中の「当事者性」は、彼の語りに強度と説得力を与えている。この、いわば当事者性の主意主義的側面については、まだほとんど(理論的には)語られていないと思う。
たとえば貴戸は、次のように語っている(『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.223、強調は引用者)。

 「不登校」を否定するとか、肯定するとか以前に、それを抱えた私がここにいる、ということが重要だった。それを抱えた私は、いつもゆらゆらしていた。「不登校」なんてびりびりに切り裂いて床に叩き付けたい、と思いながら、そこに私の核みたいなものがぎゅっとつまっているような気がして、「これだけは」と持ち前のキツネ目をさらに吊り上げて守ってもきた。大げさに見えるかもしれないけれども、それが私の「ありよう」で、言葉で、これから不登校をしていくかもしれない次の世代の人びとに対する「落とし前」だった。



私は本稿で、不登校経験者の特権性を語る貴戸理恵に批判的な立場をとっているが、経験当事者本人のみが持つ主意的執念については、ないがしろに語るわけにはいかない。端的に言えば、「知的に興味があるから不登校を論じています」という人と、「自分が苦しんだから論じている」という人とは、言葉の組織原理が違う
あるいは、斎藤環が指摘してくれたように*1ある問題の当事者性とは、その執念の有無からさかのぼって同定されるべきかもしれない*2。経験者であっても、その経験をどうでもいいと思っている人も居るし、そういう人に当事者性を押し付けてはいけないと思う。何を焦点化して生きるかは、各人の自由だ。

    • 経験者であっても執念は消え得るし、そのことが責められるべきではない*3。執念は、語りのあとに(事後的に)発見される。▼執念の喪失は、社会適応という観点からは慶賀すべきかもしれないが、それにはどこか「洗脳」の匂いもする。また、特異的執念が失われれば、継続的な生活意識自体が解体してしまう(去勢のフレーム問題)。 特異的執念と匿名的な生活順応との関係は、また今後の課題。

執念のモチーフやスタイルは、人や時間で変わり得る。学者的言説の習得が、文体を「変えてしまう」こともあるだろう(しかし、主知的なだけで優れた論文は書けるものなのか?*4)。また、経験者だから高いレベルの議論ができる保証など全くない。(むしろ、経験当事者の行なう議論のほとんどは、単なる独りよがりだ。)
宮台真司は、「右翼/左翼」を「主意主義主知主義」と整理しているが(参照)、この対比は、《当事者》という語り手のポジションを学者の言説と対比するためにも、非常に有益に思える(このことは、調査対象者たちの持つ「研究者」へのアレルギーとも関係している)。






*1:ビッグイシュー第46号

*2:当事者性に関する、社会学的同定精神分析的同定の相違?

*3:逆にいえば、執念の喪失が強要されるべきでもない。やや文脈が違うが、私が死刑廃止論者に感じる最悪の疑問がこのあたりのことだ。

*4:自分の経験についての強い執着を持っていた人が、学的ディシプリンに馴染もうとする中で原点を見失うケースはないだろうか。――いっぽう、「学的言説の語り手としての当事者性」というものも、あるはずなのだが・・・。

「当事者研究」の構図は、開放系としてあるべき

不適応の記憶は、まずは譲ることのできない倫理的な固執として、肯定される。しかしそれは、被支援者と支援者(研究者)が、持ちつ持たれつの選民的ナルシシズムの構図を安定させたり、それを押し付けたりするためではない。不適応者の置かれた状態(「その後」を含め)を吟味し、その窮状を換骨奪胎するためだ。不適応の現実を、風通しの良い現実に創り変えること*1。 改善が進めば、差別化=特権化の構図にとどまる必要はない。本人も、一つの当事者性のフレームにとどまり続ける必要はない。多層的な存在として、他のフレームでの取り組みがあってしかるべきだ。


繰り返し肯定され、反復されるべきなのは、「自分の問題を、自分の言葉で考える」という、その研究の構図そのものだ。「研究する自分」と「研究される自分」とが、一定のテーマ(アイデンティティ)のもとに固定されるべきではない*2。容赦なき「分析の構図」そのものが肯定されるべきなのであって*3、構図の「両極」が単に静態的に居直るのではない。


「自分の問題を、自分の言葉で考える」という構図の反復は、研究される側の自分も、研究する側の自分も、さらにその両者を取り巻く環境をも変化させてゆく。研究の両極を静態的に固定することは、研究対象である「不適応者」を特権化し、もって「研究する側」をも特権化することになる。――これは、社会調査をする社会学者とともに、弱者支援に居直る左翼がつねに陥りがちな「正義の味方」的アリバイ作りであり、そこでは「擁護する側」である自分自身への、分析的・反省的な取り組みが見られない。つまりその支援者は、当事者意識を持たない。また逆に支援される側も、支援されるポジションに居直ることで、分析的な当事者意識を持っていない。【私はここで「当事者意識」を、「自己分析的な意識」とほぼ同義に使っている。社会学的には「当事者」であっても、自分で自分の心理や状況を分析的に語れない人については、「当事者意識がない」と見なしている。自己分析なき当事者意識は、自己を特権化する当事者ナルシシズムにすぎない。】
不適応者を「当事者」として支援する態度には、多かれ少なかれ、他者を特権化する構図がある。また、“当事者”とされた不適応者は、その特権化の構図に居直ることで、かろうじて社会に居場所を得ているところがある。(学問的な調査対象になった未開民族が、調査者の希望通りのあり方を再帰的に演じるケースを思い出す。)





*1:学校に行かないことが、風通しの良い形で肯定されてもいいだろう。そのためには、単なる価値観的肯定以外のインフラ整備が必要だ。セーフティネットの構築(参照)や、生涯にわたる職業訓練機会の拡充など。

*2:とはいえ、たとえば「不登校」というアイデンティティの固定と、そこでの活動や交流の履歴は、一定のコミュニティを形作る。これは絶対に等閑視してはならない要因だ。ここの部分でも、《当事者性》の議論は、「伝統」を含む右翼系の議論に通じる。▼宮台真司によれば、「伝統」とは、本人にそのつもりがなくとも生きられてしまう何かだ(参照)。 ラカン派の精神分析にいう《症候》という概念をも思い出す。

*3:この構図が成り立つためには、いったんは両極が固定されなければならない。

「自分で自分を研究する」の、開放的連携

《当事者》というポジションが、あくまで関係性においてのみ成り立つものであることについては、貴戸自身が次のように語っている(強調は引用者)。

 しかしそれは、当事者というものを「何らかの本質や実態を共有する集合としてではなく、あくまでも行為者相互の関係におけるひとつの位置」と考えているためです。「確固とした当事者が存在する」というのではなく、その人が当事者であるかどうかは、どのような状況のもとで、誰と向き合うかによって、その都度はかられるものと捉えています。

「自分の問題を、自分で研究する」という、分析的な取り組み同士が連携すること。

 当事者研究の向こうに見えてくるのは、「完治」や「解消」ではなく、「人とのつながりの回復」なのだ。だから、キャッチフレーズは、「自分自身で、共に」。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.200)

各人が自分の状況を分析する、その分析プロセスの動的な《共有》が、その都度そのつどの「仲間」として生きられる*1
いっぽう、特定の《当事者性》が特権化されるだけの連帯では、「自分たちは○○なんだ」という当事者ナルシシズム(自己分析なき特権意識)しか共有されていない。





*1:三脇康生らの「制度改編主義」も、そうした態度だろう。

「おとな」――静止画像から活動形へ

「自分たちは、特権的に正しいのだ」。これこそが、内ゲバや不当な暴力の温床となる幼児性だ。

 そこで重要なのは、「正しさ」を掲げるかどうか、ではなくて、自分たちの「正しさ」に対して違う意見を差し向けてくる人びとを、どう扱うか、ということじゃないかな。
 「よい」「正しい」を目指しているからといって、担い手の人間が特別に「いい人」「正しい人」であるわけじゃない。引くに引けないときもあるし、間違うことだってある。それは人としてあまりにも当然のこと。だから、少なくとも、自分たちとは異なる「正しさ」を持つ人びとを、排除したり痛めつけることのないように、気をつけていなければならないと思う。
 大切なのは、「いつも正しくある」ことではなくて、「時には正しくあり得ないかもしれない」ことを、知っていること、じゃないだろうか。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.213-4)

これはすでに、成熟を目指そうとする姿勢ではないだろうか。
貴戸は「コドモどうしがつながるために」というのだが(p.177)、私はむしろ、創意工夫に満ちた、動的な「大人」のつながりを目指しているように見える*1
大人であることは、「社会に適応できている」というような静止画像の問題ではなくて、「フェアであろうとする」という、活動形の問題だと思うのだ。





*1:「コドモであり続けるためのスキル」というタイトルを紹介すると、幾人かの人は「子供であり続けるのではなくて、《別の形で大人になる》ことが重要なんじゃないの」と指摘してくれた。

「コドモであり続ける」ではなく、「フェアであろうとする」ためのスキル

《当事者》とは、そもそもが交渉主体の問題系だ。単なる社会適応も、単なる自己の特権化も、交渉主体として未熟すぎる。
「子供であり続けるためのスキル」というタイトルを知ったとき、正直私は、困惑を隠せなかった。《当事者》というフレームにこだわるとき、最も懸念しなければならないのが、独りよがりの特権性の主張であり、その意味での幼児性だと思うからだ。弱者に味方する自分を絶対化し、闇雲な暴力をふるう左翼を「小児的」と形容することがあるが、現在の《当事者》周辺の事情には、自己分析もなしに噴き上がる幼児性を濃厚に感じる。
《当事者》とは、最初から「公正さ」を目指した用語であると考えれば*1、「自分の問題を自分の言葉で語る」という貴戸の呼びかけは、自分を特権化するコドモを目指すのではなく、むしろ過激なまでに成熟を、つまり「フェアであること」を目指す形でしかあり得ないはずだ。あるいはむしろ、「フェアであること」こそが、当事者的な欲望というべきだろう。そうでなければ、夜郎自大覇権主義になってしまう。【貴戸は、「わたしたちはもっと怒っていい」というのだが(参照)、アンフェアであることへの怒りは、「わたしたち」自身にも向かうべきだし、そうでなければ困る。】


「フェアであること」は、一定の権力なしには実現しない。逆にいえば、弱者として現れる当事者性は、じつは一定の仕方で《権威=権力》でもあるのだ。貴戸の議論は、(本書に限らず)このことにはまったく触れていない。
《コドモであり続ける》ためには、「絶対的弱者」と、それを保護する「絶対的擁護者」が必要だった。しかし《フェアであろうとする》ためには、別の考察が必要だ。貴戸の議論は、「フェアであろうとすること」の萌芽を含みつつ、いまだ「絶対的弱者」の段階にとどまっているように見える。


【了】




*1:法的にも政治的にも、《当事者》というのは、相手のある話だ。この世に一人しかいなければ、その人は《当事者》ではない。つまり、加害や被害を通して、関係の中での「不当な状態」を生きることができない。人間なき自然のなかに、《当事者》はいない。