貴戸理恵 『コドモであり続けるためのスキル』について 1

ueyamakzk2007-07-19

はじめに

不登校経験者の立場から不登校を研究する貴戸理恵は、デビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』以来、《当事者》という言葉のフレームにこだわり続けている。
以下では、貴戸の著書『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』(2006年)を批判的に取り上げながら、いくつかの整理を試みる。




「自分の問題を、自分の言葉で語る」という努力のフレーム

この本では、「コドモである」ということが、「当事者である」ことに重ねられる。

 この本が目指してきた「コドモであり続けるためのスキル」の、一番のカギになるところは、「自分の問題を、自分の言葉で語る」ということだった。(p.180)

貴戸の取り組みの核となるフレームはここにあるし、「当事者」という言葉に固執する意義は、いったんはここに限定すべきではないかと思う。社会生活の最も基本的な営みである交渉・契約関係を維持するために、「自分の問題を、自分の言葉で語れる」ようになること。
追い詰められた者にとってこそこうした活動は必要だから、貴戸のメッセージは、つらくなっている人たちへの励ましの意味を持ち得る。ただ、「自分の問題を自分の言葉で語る」という努力のフレームは、べつに不登校の経験者であるとか、女性であるとかいうことを特権化するものではなく、社会生活を営む個人であれば誰にでも言えるし、言う必要のあることだ。 《当事者》とは、人を交渉主体にする言葉でしかない*1


不登校の経験者である」というアイデンティファイ(同定化)は、少なくとも原理的な意味においては、交渉関係で特権的な地位を保証されるためになされるわけではない*2。問題を扱う議論のフレームが出来、自分たちの苦しさを論じやすくなったり、問題が問題として社会的に認知されるのを助ける効果がある*3――ひとまずはそれだけだ。


このようなことをわざわざ言うのも、どうも貴戸の議論の中では、「不登校の経験者である」「○○の当事者である」というだけで、特権的な主張権限やナルシシズムを許容しているように感じられるからだ(彼女自身についても、他の人についても)。これは貴戸だけの問題ではなく、現在《当事者》という言葉にこだわって活動したりものを作ったりしている人たち全般に常に疑い得る姿勢だ*4
不登校経験者であることに特権性があるとしたら、それは自分のことを考えようとするときのフレームとして「不登校」を用い得るということでしかなく、そのフレーム特定も、「益があるならすればいい」ということでしかない*5。そもそも人は、さまざまな関係の結節点として、複層的な当事者性を生きている。「どのフレームに焦点を当てるか」は恣意的であり得るし、それはアジェンダ設定の政治的選択の問題だ。すべての当事者性に光が当てられるわけではない*6


コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』では、焦点化される当事者性は「コドモ」に重ねられている。本書を含む「よりみちパン!セ」シリーズは、中学生を読者として想定しているから、当事者性が「コドモであること」に重ねられるのは、当然かもしれない。しかしその上で、貴戸の標榜する当事者論には、疑問が残る。それを少しでも整理できればと思う。





*1:いわば、社会契約論の原点に帰ること

*2:考える必要があるのは、役割理論的な位置づけ(参照)や、「アファーマティブ・アクション」について。

*3:政策対象として検討されるためには、差別化(カテゴリー化)が必要だ。

*4:6年近く前に『「ひきこもり」だった僕から』というタイトルで本を公刊させていただいた私は、「ひきこもりだった」という名詞化といい、「僕から」という私的な名乗り方といい、まさにこうした「当事者ナルシシズム」の文脈に身を置いている。このタイトルを引き受けてしまったことについて、私はこれから、時間をかけて批判的に検証するつもりでいる。

*5:当事者性は、本人が望まなくとも背負わざるを得ないものもある(差別・障害・症状など)。自由意志で忘却できる当事者性と、そうではないものの区別については、あらためて考えたい。

*6:メタな視点を取って、「自分は何も無視しない」などというのは、実際にはあり得ない。自己満足的な言葉遊びにすぎない。

「おとな/コドモ」

 就職して税金を納め、結婚して家庭を持ち、社会の中で期待される役割をこなしてゆく存在のことを、ここでは「一人前のおとな」と呼んでおこう。(p.35)

おとなになるとは、単に順応することであり、「自分の問題を、自分の言葉で語る」ことがないとされる。だから本書の終盤では、「おとなの人、いっしょにコドモ、やりません?」と呼びかけられる(p.229)。

 「いつまでもコドモのまま? 何を言ってる。ちゃんとおとなになりなさい」
 と言ってくる「おとな」の人には、言ってあげよう。
 「飽きませんか? よかったら一緒に、しばらく「コドモ」やりませんか」
 いったんは「適応」した人も、一生「適応」しつづけるなんて疲れることだ。
 「不適応」という別の道に足を踏み入れても、それだけで人や社会から切り離されたり、生きられなくなったりしないこと。
――そのことは、もしかしたら「適応」しまくっている「大人」の人にこそ、必要なことなのかもしれない。(p.232-3)

本書の「おとな/コドモ」の対比では、次のどちらの話をしているのかを気にしながら読むと整理しやすい。
   ・(1)社会に適応しているか否か 【状態像(存在)】――適応としての「おとな」、不適応としての「コドモ」
   ・(2)批判的な意識の有無 【努力のフレーム】――「自分のことを、自分の言葉で語れるか」

 「おとなになる」ということが、「ずっとコドモのままでいる」ってことと、少なくとも同じくらいには非現実的に見えてしまう現実を、私たちは今生きていて、無理やり「おとな」になったりしたら自分を壊してしまう、「コドモ」のままでいればそれはそれで生きづらい、という八方ふさがりのなか、雨にも負けず風にも負けず、しっかり着々と「おとな」になり損ね続けているのが現状なのだ。
 それなら、適応したら自分が壊れることが目に見えているような社会で「おとな」になろうとあがくよりは、「生きづらさ」を抱える自分と折り合いを付けながら、「コドモ」として居直って生きていくという道だってありじゃないか。(p.32)



コドモでいても、批判的な努力のフレームを維持することはできる。――そこに、「コドモ」という、社会化されない存在であり続けるための「スキル」という、矛盾したタイトルの核がある。「問題意識を維持することで、単に順応するより、ずっと大事なことが生きられるのではないか」。本書で主張されている《コドモ》は、状態像としては社会に不適応でありつつ、大人社会に批判的な自意識を保つ存在といえる。
とはいえ、状態としてコドモ(不適応)であっても大人社会に疑問を持たず、「自分のことを自分で語る」ことをしない人も居るから、本書で貴戸が推奨しているのは、じつは「コドモであり続ける」という状態像のことではなくて、「批判的な意識を持った当事者であり続ける」という努力のフレームのことだろう。


《当事者》とは貴戸の場合、「社会適応できない人たち」のことだが、社会適応していても、適応しているがゆえの当事者性=責任は生じる。貴戸の議論では、力のない不適応者を鼓舞する当事者論は繰り返し語られるが、逆に「力を与えられた側」として、その力を制限するための当事者性(フェアな責任問題)*1は、ほとんど語られない。▼貴戸の議論では、弱者性における特権的なナルシシズムのみが語られ、チャンスをもらうこと自体が必要とする制限(公正さ)については、ほとんど検証されていない。





*1:この意味での「当事者発言」には、単なる弱者尊重にとどまらない破壊力があり得る。あるいは、“健全な社会参加”を続ける人たちの自己分析こそ、弱者のために有益かもしれない。

一人二役

むしろその部分は、「自分以外のつらくなっている人を受け入れる」ことで、免除されているようにすら見える。

 「コドモであり続ける」ことは、「次の世代のことを考える」ことと、ぜんぜん矛盾しないんだね。それは、「だって、コドモだもーん」と「義務」や「責任」を放棄するのではなくて、「おとな」とは違ったかたちで、「誰かのために何かをする」ということを、負っていくこと、でもあるんじゃないかな。(『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』あとがき、p.239-40)



本書の全体を通して貴戸は、「自分のことを自分で考える」ことで力を得た人間の一人として、「自分以外のつらくなっている存在を受け入れる」語り手となっている。――これは、不登校経験者を無条件に肯定した奥地圭子と、同じポジション取りといえる。そこでは、「社会不適応者=コドモ」を受け入れることで、受容者としては無条件のアリバイが確保されてしまう。(「弱者の無条件の肯定」と、それを行なう擁護者の政治的アリバイの無条件肯定は、セットになっている。政治的アリバイの欲しい支援者は、なるだけ文句の出ない決定的な弱者に味方しようとするだろう。)


つまり貴戸は、みずからを「不登校当事者」と語ることで、《擁護される側》として無条件に肯定され、そのみずからをコドモ=当事者として擁護することで、《擁護する側》としても絶対的なアリバイを手にする。貴戸は、擁護される側としての特権と、擁護する側としてのアリバイの両方を自らの内に含み、無敵のアリバイ構造を主張しているように見える。


無条件的に擁護される側を「子ども」というなら、その発言は《存在》としては擁護されても(参照)、交渉主体としては、対等な権限を主張することはできない*1。また、コドモという権限で発言を行なったとすれば、その内容は絶対ではなく、誤りが含まれ得る。擁護される存在だからといって、その発言内容が無批判に受容されていいわけではない。
支援者の側も、コドモを擁護する身振りで無条件に肯定され得るわけではない(目指されるべきは、コドモとの関係における「公正さ fairness」であって、一方的な擁護ではない)。不登校経験者を擁護する身振りは、交渉弱者である「当事者=本人」に代わって、交渉行為を補佐・代理しているだけだ*2交渉弱者本人の表明する意見は、いくらでも間違い得る


擁護される側としての自己の特権化と、その特権的自己を擁護することによって、擁護する側としての自己をも特権化すること。ここに、貴戸の言表行為の根本的な問題構造がある。(繰り返すが、これは貴戸だけの問題ではない。みずからの当事者性にこだわる人全般に疑い得る。)





*1:たとえば法的には、未成年者や精神障害者には、対等な交渉権限がない(参照)。

*2:交渉主体としての権限はあくまで不登校経験者本人にある。貴戸のデビュー作は、まさにそのことに固執した作品だった。貴戸はそのことでトラブルに巻き込まれもしたが(参照)、「本人の声」をあくまで尊重した点において、私は貴戸を支持する。

「守られる側」と、「守る側」

貴戸が「コドモであり続ける」と主張するとき、そこで守られようとしているのは、不登校状態にあった小学校時代の彼女自身だ(本書の冒頭は、不登校時代の彼女の経験が『長くつしたのピッピ (こども世界名作童話)』に重ねて追想される)。
貴戸は、今でも自分を不登校《経験者》とは名乗らず、不登校《当事者》と名乗る。過去の現役不登校児童だった時代にもらった処遇のフレームを、成人以後の自分にも与えてほしい、と主張している。そのことが、「コドモであり続けること」と表現される。


郷愁と自己愛の対象でありつつ、倫理性の要(かなめ)でもある*1「子供時代の自分」が、静的な存在として特権化=全肯定され、批判してはいけない対象になる。その絶対的存在を守ろうとする、大人としての能力と権限を持った貴戸は、「コドモ=弱者=当事者」を守ろうとする言葉(運動)として、絶対的なアリバイを手にする。繰り返すがこの構図は、「不登校当事者を擁護する」というアリバイで「学者・貴戸理恵」をバッシングした奥地圭子と、同じものだ(参照)。


奥地圭子においては、「守られるべきコドモ」は、自分の外にあった(奥地自身は不登校経験者ではない*2)。だから奥地は、「コドモを擁護する言説(運動)」のみを担う。ところが貴戸にあっては、「保護されるべきコドモ」と、そのコドモを肯定する「保護者」の役割が、両方自分のなかにある。コドモと保護者の役割は、そのつど都合よく演じ分けているようにも見える*3





*1:「私の一番大切な核の部分」(p.188)

*2:奥地の息子は不登校経験者。

*3:このことは、東京シューレ側によっても指摘されていた。この貴戸の問題は、私自身も他人事ではない。

「Nさん問題」

「擁護される側の自分」と、「その自分を対象化する自分」との関係は、貴戸にあっては、すでに「Nさん問題」として論点化していた(参照)。
貴戸のデビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は、不登校経験者へのインタビュー取材によって成り立っているが、取材対象者として登場する「Nさん」*1は、各所で公表された貴戸の経歴*2と読み合わせれば、貴戸自身であることが明らかだ。つまり彼女は、学術論文の執筆者として、自分自身を「取材対象」に繰り込み、かつその事実を明示しないまま、論文を提出・公刊した。一般的な論文作法からすれば明らかな逸脱であるこの振る舞いが、「当事者研究」の方法的精髄の主張であるならば、それ自体を方法論として主題化し、論じる必要があるだろう*3
この件について本人に問い合わせたところ、貴戸は当時「これから時間をかけて考えてゆきたい」と話していた*4。それからすでに2年が経つが、「論じる側と論じられる側の同一人物における同居」という原理的な問題構造については、貴戸はいまだ明示的には論じていない。

 じゃあ「当事者研究」って何だろう?
 問題を抱えた人をめぐっては、通常「研究する」のは「専門家」の役割で、「当事者」は「研究される」側だ。でも「当事者研究」では、私のことを私が知るために、私が研究するのだ。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.198)

ここでは、「研究される側」の自分を100%肯定し、「研究する側」の自分をも100%肯定することになる。これでは、研究構造の維持自体が、「研究する側・される側」双方のナルシシズム(去勢否認)を温存してしまう。





*1:同書p.170-175

*2:不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』など

*3:たとえば精神分析では、「自己分析」の問題系として論じられている。

*4:【参照】:『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿、「《当事者の語り》をめぐって」、(注2)

「自分を研究する」という動機づけの構造と、公正な吟味

「自分の問題を、自分の言葉で語る」というチャレンジは、社会的な逸脱を経験したことのない人にも開かれている。(むしろ社会的な力を持っている人たちの自己分析こそ、有益であるかもしれない。そのような「当事者研究」を為す人が増えれば増えるほど、この社会は生きやすくなるだろう*1。) ▼ある経験をした人びとを「当事者」として、あるいは「研究対象」として囲い込む特権化は、特定の経験に本人たちを縛り付けることにもなりかねない。

 私は、何でわざわざ「研究」って言うんだろう、当事者の「エッセイ」や「手記」じゃどうしていけないんだろう? という疑問に、なかなか答を出せないままでいた。
 それが、べてるの家の人たちの「研究」の様子を見て、あっと思った。

 ――だって楽しいじゃん、と言うのだ。
 それは、大きな発見だった。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.202)

「研究される側」の自己は、あくまで公正な吟味の対象であり、絶対的に肯定されるだけの固定的な対象ではない。それは考察の対象としていったんは(「不登校」等のフレームにおいて)存在を肯定されるが、吟味の結果、その対象となった自己に対して、単なる肯定以外の言葉が向かうかも知れない。


「自分で自分を研究する」という構造は、自分がどうしても固執してしまう特権的なリアリティ*2に動機づけられている。それは、動機づけの構造そのものであって、この構造を失えば、動機づけ自体が失われる*3。――とはいえこの構造は、再生産され続ける《出発点》であり、交渉行為の原点として、あるいは心的リアリティの尊重構造として、反復されるにすぎない。そこでえぐり出された「自分のニーズ」は、他者との交渉関係の中で、断念させられるかもしれない。





*1:これは、「みんながバカになっても暮らせる社会を」と語る東浩紀宮台真司の方針とは真逆といえる。

*2:「私の一番大切な核の部分」(p.188)

*3:多くのひきこもり支援者は、この部分を無視しすぎる。貴戸のデビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の功績の一端は、まさに「本人の心的リアリティ」固執し抜いたことにある。