一人二役

むしろその部分は、「自分以外のつらくなっている人を受け入れる」ことで、免除されているようにすら見える。

 「コドモであり続ける」ことは、「次の世代のことを考える」ことと、ぜんぜん矛盾しないんだね。それは、「だって、コドモだもーん」と「義務」や「責任」を放棄するのではなくて、「おとな」とは違ったかたちで、「誰かのために何かをする」ということを、負っていくこと、でもあるんじゃないかな。(『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』あとがき、p.239-40)



本書の全体を通して貴戸は、「自分のことを自分で考える」ことで力を得た人間の一人として、「自分以外のつらくなっている存在を受け入れる」語り手となっている。――これは、不登校経験者を無条件に肯定した奥地圭子と、同じポジション取りといえる。そこでは、「社会不適応者=コドモ」を受け入れることで、受容者としては無条件のアリバイが確保されてしまう。(「弱者の無条件の肯定」と、それを行なう擁護者の政治的アリバイの無条件肯定は、セットになっている。政治的アリバイの欲しい支援者は、なるだけ文句の出ない決定的な弱者に味方しようとするだろう。)


つまり貴戸は、みずからを「不登校当事者」と語ることで、《擁護される側》として無条件に肯定され、そのみずからをコドモ=当事者として擁護することで、《擁護する側》としても絶対的なアリバイを手にする。貴戸は、擁護される側としての特権と、擁護する側としてのアリバイの両方を自らの内に含み、無敵のアリバイ構造を主張しているように見える。


無条件的に擁護される側を「子ども」というなら、その発言は《存在》としては擁護されても(参照)、交渉主体としては、対等な権限を主張することはできない*1。また、コドモという権限で発言を行なったとすれば、その内容は絶対ではなく、誤りが含まれ得る。擁護される存在だからといって、その発言内容が無批判に受容されていいわけではない。
支援者の側も、コドモを擁護する身振りで無条件に肯定され得るわけではない(目指されるべきは、コドモとの関係における「公正さ fairness」であって、一方的な擁護ではない)。不登校経験者を擁護する身振りは、交渉弱者である「当事者=本人」に代わって、交渉行為を補佐・代理しているだけだ*2交渉弱者本人の表明する意見は、いくらでも間違い得る


擁護される側としての自己の特権化と、その特権的自己を擁護することによって、擁護する側としての自己をも特権化すること。ここに、貴戸の言表行為の根本的な問題構造がある。(繰り返すが、これは貴戸だけの問題ではない。みずからの当事者性にこだわる人全般に疑い得る。)





*1:たとえば法的には、未成年者や精神障害者には、対等な交渉権限がない(参照)。

*2:交渉主体としての権限はあくまで不登校経験者本人にある。貴戸のデビュー作は、まさにそのことに固執した作品だった。貴戸はそのことでトラブルに巻き込まれもしたが(参照)、「本人の声」をあくまで尊重した点において、私は貴戸を支持する。