「おとな/コドモ」

 就職して税金を納め、結婚して家庭を持ち、社会の中で期待される役割をこなしてゆく存在のことを、ここでは「一人前のおとな」と呼んでおこう。(p.35)

おとなになるとは、単に順応することであり、「自分の問題を、自分の言葉で語る」ことがないとされる。だから本書の終盤では、「おとなの人、いっしょにコドモ、やりません?」と呼びかけられる(p.229)。

 「いつまでもコドモのまま? 何を言ってる。ちゃんとおとなになりなさい」
 と言ってくる「おとな」の人には、言ってあげよう。
 「飽きませんか? よかったら一緒に、しばらく「コドモ」やりませんか」
 いったんは「適応」した人も、一生「適応」しつづけるなんて疲れることだ。
 「不適応」という別の道に足を踏み入れても、それだけで人や社会から切り離されたり、生きられなくなったりしないこと。
――そのことは、もしかしたら「適応」しまくっている「大人」の人にこそ、必要なことなのかもしれない。(p.232-3)

本書の「おとな/コドモ」の対比では、次のどちらの話をしているのかを気にしながら読むと整理しやすい。
   ・(1)社会に適応しているか否か 【状態像(存在)】――適応としての「おとな」、不適応としての「コドモ」
   ・(2)批判的な意識の有無 【努力のフレーム】――「自分のことを、自分の言葉で語れるか」

 「おとなになる」ということが、「ずっとコドモのままでいる」ってことと、少なくとも同じくらいには非現実的に見えてしまう現実を、私たちは今生きていて、無理やり「おとな」になったりしたら自分を壊してしまう、「コドモ」のままでいればそれはそれで生きづらい、という八方ふさがりのなか、雨にも負けず風にも負けず、しっかり着々と「おとな」になり損ね続けているのが現状なのだ。
 それなら、適応したら自分が壊れることが目に見えているような社会で「おとな」になろうとあがくよりは、「生きづらさ」を抱える自分と折り合いを付けながら、「コドモ」として居直って生きていくという道だってありじゃないか。(p.32)



コドモでいても、批判的な努力のフレームを維持することはできる。――そこに、「コドモ」という、社会化されない存在であり続けるための「スキル」という、矛盾したタイトルの核がある。「問題意識を維持することで、単に順応するより、ずっと大事なことが生きられるのではないか」。本書で主張されている《コドモ》は、状態像としては社会に不適応でありつつ、大人社会に批判的な自意識を保つ存在といえる。
とはいえ、状態としてコドモ(不適応)であっても大人社会に疑問を持たず、「自分のことを自分で語る」ことをしない人も居るから、本書で貴戸が推奨しているのは、じつは「コドモであり続ける」という状態像のことではなくて、「批判的な意識を持った当事者であり続ける」という努力のフレームのことだろう。


《当事者》とは貴戸の場合、「社会適応できない人たち」のことだが、社会適応していても、適応しているがゆえの当事者性=責任は生じる。貴戸の議論では、力のない不適応者を鼓舞する当事者論は繰り返し語られるが、逆に「力を与えられた側」として、その力を制限するための当事者性(フェアな責任問題)*1は、ほとんど語られない。▼貴戸の議論では、弱者性における特権的なナルシシズムのみが語られ、チャンスをもらうこと自体が必要とする制限(公正さ)については、ほとんど検証されていない。





*1:この意味での「当事者発言」には、単なる弱者尊重にとどまらない破壊力があり得る。あるいは、“健全な社会参加”を続ける人たちの自己分析こそ、弱者のために有益かもしれない。