『引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』について
2006年4月、ひきこもりを「支援」するはずの施設で起こった死亡事件(参照)を受け、さまざまな経歴を持つ6人の原稿と、緊急シンポジウムの記録が掲載されている。
細かく読めば、論者によって主張する内容はさまざまなのだが、この本の全体が、ひとつの政治パンフレットのように成立している。 「ひきこもるしかなくなってしまった人は、とにかく追い詰められているのだから、まずは全面的に肯定されるべきなのだ」と。 社会復帰を強要する、「善意」の支援の暴力性――「引きこもり狩り」――が、繰り返し批判される。
正直に言えば、積極的なひきこもり論としての内容には乏しいのだが、憎悪に満ちた「支援」論があとを絶たず、死亡事件まで起こっている現状では、「まずは無条件に肯定してみせる」という直截な素振りの政治的意義は、どうしても無視できない。 暴力的な支援者の存在におびえる当事者の多くは、この本に安堵したと思う。
ただ、「ひきこもりを全面肯定すべきである」という主張は、当然ながら、ご家族による扶養を無条件かつ無際限に要求している。 それは事実上、永続的な資金提供への「命令」であり、ご家族は、この運動体のイデオロギーに威圧されてしまう。 ▼理念的な正しさを主張するだけで金策を相手に任せ、工面できなければ「悪いのはお前だ」というのでは、一方的すぎる。
また、「全面肯定すればいつかは社会に出てきてくれる」というのだが、これでは自分たちのロマン主義をひきこもりに押し付けているだけで、事実上はひきこもりの権限を否定している。 ▼いくら肯定しても出てこれなければ、結局はひきこもっている本人の責任か、あるいは「家族による肯定の度合いが足らなかったからだ」という話になる。 何をどうしても本当に出てこれないケースは、「ひきこもりを全面肯定せよ」という主張にとって都合が悪いため、「存在してはならない」ことになる。*1
今の私は、(1)あくまで形式的には、「本人を含む、家族や社会との対等な交渉関係」を正義の理念としつつ、 (2)それが実際的にはほとんど成立しない現実をどう調整してゆけばよいのか、という立場で、ひきこもりを考えている。 以下は、そういう立場からの批判的言及である。
【『狩り』 2】、 【『狩り』 3】、 【『狩り』 4】、 【『狩り』 5】
ひきこもりを全面肯定する資金は誰が出すのか。
ひきこもっている人への援護射撃として、「全面肯定」というスローガンが有益な局面はあると思うが、その構図自体を硬直させてしまっては、その後の家族内での話し合いが成り立たない。 ▼そもそも「全面肯定」は、「それをすれば本人は社会復帰してくれる」というエサとともに提示されているが、そのような前提つきでは、ひきこもっている本人までが運動体の思惑に巻き込まれている。(いくら扶養されても、就労や中間集団への参入は無理かもしれない。運動体には運動体の中間集団のロジックがある。)
支援者が理念的にまず担うべきなのは、イデオロギーの覇権主義による威圧ではなくて、「交渉関係の調整役」だと思う。 【本人にとっては、そうした関係の能力向上こそが、そのまま社会訓練であり、「ひきこもり支援」ではないだろうか。 ひきこもるという状態は、交渉の果実でもあり得る。(交渉の果実ではないひきこもりは、家族への暗黙の威圧でしかない。)】
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- 本書は、「革命主体としての引きこもり」に、「親に活動資金を出させろ!」と呼びかける本にも見える。 ▼「ひきこもり問題は、活動家のイデオロギーを正当化するためのおいしいネタではないのか」との疑念を、複数のひきこもり経験者が漏らしている。
親がひきこもってしまったらどうするのか。
冗談のように聞こえるかもしれないが、これは「対等な交渉関係」という原理的な部分を確認するためには、どうしても必要な論点になる。
実際、親御さんの一部は、金銭的・精神的に追い詰められ、倒れたり亡くなったりしている(一部は自殺と聞いている)。 「ひきこもりの全面肯定」というなら、親御さんにもひきこもる権利があるはず*1だが、その場合には誰が扶養するのか。 ▼身近な者がひきこもる行動に出たとき、それを「全面肯定」する義務は、現在ひきこもっている当事者にも課せられなければならないはずだが、なぜか本書の議論においては、「子供の立場で引きこもった者」が、特権化されている。
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- 「全面肯定せよ」という主張は、家族内や社会でのあまりに一方的なワンサイドゲームを改善するため、いったんは導入する価値があると思うが、最初から無理と矛盾をはらんでいる。 このスローガン自身が、「交渉のツール」であると踏まえる必要がある。 ▼「全面肯定」というよりは、やはりお互いの「権利」の議論に、切り替えてゆくべきではないだろうか。
*1:「子供にはひきこもる権利があるが親にはない」というなら、その不均衡を正当化せねばならない。 そこにも、考えるべき議論のネタが詰まっているように思う。
スケープゴートとしての斎藤環
斎藤環氏は、本書では非常に無造作に、死亡事件を起こした団体の責任者と並び称され、非難されている*1。
斎藤氏は、「初期と比べて考えが変わってきた」と自分で語っているが*2、彼の出発点が、ひきこもりへの過剰な否定を含んでいたとして、その後の変化の方向が、本書の主張するような「全面肯定」(硬直した承認イデオロギー)でしかないなら、私はいずれの立場をも支持できない。
今の私は、斎藤氏の立場とその変遷を、「公正さ」および「欲望の倫理」との関係で検証すべきだと考えている。――そのフレームは、実は斎藤自身が主張し始めたことだ*3。 以前の、あるいは現在の斎藤の発言は、どこがどう間違っているのか。 本人自身に問い直す価値はある。 ▼ひきこもりについては、それを単に治療や暴力の対象にすることも、単に全面肯定することも、「公正さ」と「欲望の倫理」に反している。 私が、《交渉》というフレーズを多用するようになったのも、まさにこうしたフレームへの賛同を意味している。
個別の支援者や論者、あるいは個別の事例の是非については、その都度そのつど、検証を繰り返すしかない。 そのしんどさをまぬがれようとするときに、「治療主義」とか、「全面肯定」とかの、大味のイデオロギーが出てきてしまう。
ひきこもりの扶養関係は、終局的には、ご本人が家族との間でもつ交渉・契約関係の、特殊な事例とみなせる。 だとすれば、その関係をどう転じてゆくかは、各ケースの当事者(本人+ご家族)に託すしかない。 ▼意思決定の最終的権限が、個別の交渉当事者にしかあり得ない以上、「どんなケースにも適用できる無条件に正しい決定」というものは、原理的にあり得ない。
「どんなケースに直面しても、自分の提案は無条件に正しい」などとは、間違っても言えない*4。 関わって発言しようとする私たち自身が、個別ケースに即して、流動的であいまいな立場に晒され続ける。
本書執筆陣の言説が今後も検証可能であるように、斎藤環の言説も、スケープゴートにして済ませられるようなものではない。 ラカン派の倫理に固執しつつも、臨床現場のあいまいな実態にこだわり続ける斎藤氏の議論にこそ、私はむしろ対決価値を感じている。
「全面肯定」のイデオロギーと、「オルグ」的支援契約
芹沢俊介氏が一部紹介しているように(p.234-5)、「ひきこもりの全面肯定」は、実際に一部の当事者に肯定的影響を持つのだと思う*1。
それは、「無条件に承認される」という呼びかけに応じて、承認イデオロギーの繭(まゆ)の内側に出てきたにすぎないのだが、この状態に親が資金を出すのであれば、それは「引き出し的な支援」として、(事後的にでも)契約関係が成り立ち得る。 あるいはそれは、ひきこもり問題を媒介にした、一種の思想運動(弱者承認のイデオロギー)に、本人が自分の苦痛を通じて興味を持ち、そこに親が資金を与えるという構図になる。
この思想運動の本当の主体は、支援される当事者本人ではなく、「覇権的なイデオロギー」そのものだと思うが*2、このイデオロギーへの賛同を通じて、誰でも「承認される」ことができる。 親も、活動への「支払い」において承認され、ひきこもる本人の肯定を通じて、家族ぐるみで承認される。――まさに「オルグ」の手法を感じる。
さらにいくつか
支援者として承認される基準は?
執筆者の一人である山田孝明氏(「情報センターISIS」ネットワーク代表)は、親御さんに相応の対価を要求して活動を続ける「支援者」の一人。 ひきこもっている本人に、外部世界との関係を作り出しているのであり、その意味に限っていえば、本書のいう「引き出し屋」*1と何も変わらないはず。
つまるところ、支援論のディテールがどうこうというよりは、芹沢・高岡氏らの承認イデオロギー(その覇権)に同意するか否かが、評価の基準(逆踏み絵)になっていないだろうか。
「解釈枠」と「インフラ利用」の峻別
「精神科医としての斎藤環」に苛烈な非難をおこなう高岡健氏は、自身が精神科医なのだから、「精神科医であることがいけない」というわけではないはず。
「医療主義であるかどうか」と、「インフラとして医療サービスを利用するかどうか」は、明白に峻別して論じる必要がある。 そうでなければ、「医療サービス拒絶の覇権主義イデオロギー」になってしまい、それ自体が強圧的な全体主義になってしまう*2。
支援サービスの消費者である当事者に対しては、医療インフラや薬剤の利用が、選択肢としては残されておく必要がある。
アリバイ作りのもたれ合い
順応主義的医療主義や、野蛮な暴力主義に対しては、本書と共に明白に抗議する必要がある。
とはいえ、その抗議の自明な正当性が、論者自身の「アリバイ作り」になってはどうしようもない。 「我々はひきこもりを全面肯定しているのだから、正しいのだ」。
忘れられた思想を抱える活動家がひきこもりを肯定し、あらゆる世間的価値観から否定されたひきこもり当事者が歓喜する。――そこには、否定された者同士の持ちつ持たれつの関係がありはしまいか。(他人事でない)
「全面肯定の道は地獄に通ずる」
ひきこもりを無理やり引き出そうとする人たちの「善意」について、「善意の道は地獄に通ずる」というのだが(芹沢俊介)、これはそのまま、「ひきこもりの全面肯定」についても疑われてしかるべき。 弱者擁護という「善意」は気持ちいいだろうし、実際に必要な局面はあるのだが、その信条それ自体が、破滅への道であり得る。 端的に、お金はどうするのか。
*1:本書に限らず、「ひきこもっている人を無理やり社会復帰させようとする自称支援者」は、一部経験当事者などによってこう呼ばれている。
*2:cf.林尚美『ひきこもりなんて、したくなかった』 p.62〜65
公正な当事者論と《去勢》――「欲望の道」かつ「作戦遂行」
【本書の直接の内容とはやや離れた、抽象的な議論になるが、「ひきこもっている人を擁護するかどうか」ということと、それにまつわる当事者や支援者の《去勢》というテーマについて、少しだけ今の私の立場を書いてみる。】
「他者の存在(生命)を無条件に肯定する」という姿勢は、往々にして別の他者を恫喝する口実になる。 それは自己分析の拒否であり、去勢否認にあたる。 これについては、「当事者」周辺のモチーフとして、徹底的に検討する必要がある。
本人にとっても、周囲にとっても、「当事者性」は、去勢否認の口実ではなく、去勢という欲望の道に従事する端緒である。 ▼また、去勢される必要があるのは、欲望そのものの要請であると同時に、去勢否認*1の状態が不利だから。 去勢は、交渉関係にまつわる事情からさかのぼって要請される。
去勢の成功は、語りの帯びることのできた説得力に即してのみ測られるのではないだろうか。 自分に対して説得力が発揮できなければ、熱意をもって語ることはできない。 相手に対して説得力をもてなければ、もちろん説得することはできない。
「どんな道ゆきでも熱を帯びることができる」というふうには、私たちはできていないと思う。 去勢の道ゆきは、恣意的に選ぶことはできない*2。 長期にわたって運営することが可能な「現実の構成」を生きるために、去勢のロジックを確認し、整理することは、必要な作業だと思う。
*1:「去勢されない」のは、理論的には「精神病」になるらしい。
*2:cf.「欲望の倫理と「構成の自由」」 ▼単なる差異の戯れではなく、「説得力=リアリティ」の熱を帯びる必要がある。