シンポジウム
外に出たくなるってどんなとき? 〜欲望と希望のあいだ〜
*1

メモと記憶を頼りに、ごく簡単に記してみます。
(もちろん、公的な記録などではありません)





*1:関係者の皆様、ありがとうございました。 (とりわけ、企画立案をされたという岡本圭太さん)

性愛的承認

斎藤環: 性的な他者に承認されることは、劇的な効果を持つ。 医者などにできることをはるかに超えている。

性愛は重要なテーマだと思うし、これからも考えたいが、実際にプライベートな関係を作ることは必要だろうか。 ▼恋愛市場に意識的に参加しない、というのも重要な選択肢だと思う。

斎藤環: 性はつねにアクシデント。

「あらかじめ設計された図面に従って努力しても、それは性愛ではない。 偶然出会うという形以外では、性愛にはならない」ということだと思う。 とても納得できる*1


事前の段階で、「誰かに出会えば」云々と期待を持つのは、対象の定まらない、あいまいな希望にすぎず、そこを足場にしてもどうにもならない。 むしろ実際には、嫌悪されたりさげすまれたりするほうが日常的で、絶望を深めるだけ。
また、片想いで思いつめても相手に迷惑なだけ。
性愛にかぎらず、人間関係では無視されたり憎まれたりするのが基本であり、愛される期待を持つよりは、「愛されないが、それでも生きることを続けてゆく」という淡々とした執着が必要だと思う*2。 ▼生きることがトラブルでしかあり得ないなら、生き延びるためには、トラブルを続ける欲望が要る。

    • 個人的な印象だが、性愛とはトラブルそのものに思える。 大切な相手との関係を続けようと思えば、むしろ性愛要因を排除しないと無理だと感じる。






*1:宮台真司氏的な「ナンパ修行」に意味がないと感じるのは、このため。 そもそも宮台氏自身が、ナンパによってぜんぜん救われていない。

*2:愛されるよりは、「愛する」という積極的な要素が必要。 しかし恣意的に選べるものではない。

「好きな人」か、「友達」か

知人女性と話していて、お互いに非常に納得できた話。
この日のシンポジウムでも説明した。

 すごく仲のいい相手が、自分にとって「好きな人」なのか、「友達」なのかの違いは、
 その相手に「新しく恋人ができた」と聞かされて、
 ショックを受けたら「好きな人」。 応援したくなったら「友達」。






抑圧・実体化

斎藤環: 1980年代半ばまで、「無気力症」という言い方があったが*1、実はひきこもりは無気力ではない。 むしろ欲望に苦しめられている。 しかし最終的には、欲望の枯渇したような非常に危険な状態になる。(統合失調症の荒廃状態とはまったく違う)

「ひきこもっている人には欲望がない」とされるが、激情を秘めていることが多い。
激情があるということは、欲望があるということ。
絶望的な無力さゆえの、荒廃と激情の往復。
「どうしようもない」






「欲望と関係性はイコール」

斎藤環: 「自発性」が、国策レベルで非常に大きなテーマになっているが、ラカンというフランスの精神分析家は、「欲望は他者の欲望である」と言っている。 欲望と関係性はほとんどイコールであり、人間関係が欲望を生む。

人間関係とは、欲望の絡み合いであり、必ずトラブルが起こる。
トラブルを維持する欲望が維持できなければ、忌避すべき要素でしかない。





「あらゆる関係性はSMだ」(フロイト)

斎藤環: 人間関係はコントロールできない。 いい加減にやるしかない。

御意。
しかし、単に「されるがまま」では、いいように利用されて泣き寝入りになる。

上山: 人間関係には、必ずトラブルが起こる。 だから、誰かとの関係を続けたいと願うことは、「その相手とのトラブルを続けたい」と願うこと。 本当に嫌な相手とは、関係を切ることになる。
斎藤環: 必ずトラブルになるわけではないから、「相手による」とは思うが、納得できるところもある。 フロイトは、「あらゆる関係性はSMだ」と言った。

非常に説得的。 フロイトはどこで言っているのだろう。





「欲望や自発性は無責任」

斎藤環: 欲望や自発性は、本質的に無責任。 ひきこもっている人や親御さんは、「意味のあるお金の使い方」ばかりを考えて苦しんでしまうが、むしろ「無駄遣いしてもいいお金」としての《お小遣い》こそが必要。 つまり、「責任を問われないお金」。 ある当事者は、「ひきこもりにとってお金は薬だ」と言った。

「欲望は無責任」というモチーフは、非常に重要だと思う。
ひきこもっている人の多くは、失敗や無責任を強迫的・恐怖症的に怖がっている(洗浄強迫の人が不潔を怖がるように)。 欲望を感じそうになっても、それにまつわるあれこれが先に浮かんでやめてしまう。
お互いに無責任な欲望を持ち寄ってこそ、交渉関係が成り立つ。 交渉の前に先取りして欲望を我慢してしまうようでは、自滅するばかり。――それがけっきょく交渉関係自体を破綻させてしまう。
本人の内に潜んでいるかもしれない「過剰さ」については、「欲望」というよりは欲動の話に思えるのだが・・・。





「成熟とは、自己愛の安定」

斎藤環: 成熟とは、自己愛が安定すること。 つまり、不完全な自分を肯定できること。 所属も仕事もパートナーもなく、対象のない自己愛は非常に不安定。
 ひきこもっている人の発想が「一発逆転型*1」になりがちなのは、リアルな自分への極端な否定感情ゆえ。
 所属も仕事も失った状態では、自分を肯定的に確認する機会をまったく失っている。 「楽だろう」と思われるかもしれないが、とても耐えられるものではないはず。

リアルな内発的去勢(欲望の道)の前に、尊大な自意識でしか自分を支えられない。
誇大妄想と過剰卑下の両極端ではなく、「相応の自信と相応の落胆」という小振幅に落ち着くことが必要だが、外側からその理想形だけを押し付けてもどうにもならない。
トラブルを維持したいと思えるような執着心を通じて、私たちは自尊感情を維持しているのではないか。 ■リアルなプライドを作製する労働の指針となる「倫理的固執」は、恣意的に選べるものではない。





*1:「F1レーサーになりたい」など

心的リアリティと執着心

本当にごまかすことのできない執着心の一つとして、「反論したい」が挙げられると思う。
倫理的な理不尽感や、黙殺されたリアリティへの執着。
自分に不正を働いた人間がのうのうと生き残り、嘘をつき続けることへの許せなさ。――そうした執着自体に意味がないと感じたとき、あるいは「反論しても仕方がない」とあきらめたとき、自分が維持できなくなる。
「あきらめきれない」という徹底的な執着心のありかは、単に「生き延びること」ではないと思う*1。 生き延びるためには、内的なリアリティこそが大事だと感じる。 それを単に「甘え」と呼ぶ人は、自分が確保できている開放的な心的リアリティに気づいていない。



*1:「家族を守りたい」も、大事な固執のひとつだと思うが、それも「自分を実体化」していては無理。