合流と歴史性

これまではずっと「一人で穴を掘っている」感じだったが、最近、いつの間にか「横穴」が通じているような気がすることがある。 ようやくそういう状態になってきた、それぐらいには掘れるようになってきた、ということか。 ▼そうなってみると、自分のしている議論の「歴史性」というものがひどく気になってくる。 自分は今こんな議論をしているが、それは歴史的にはどんないきさつの上に乗っかっているんだろう。 「ひきこもり」についてまともな議論をしている人はほとんどいない気がするけど、個別論点についてはすでに膨大な歴史がある。 ほかの人たちがしてきた議論の成果や焦点が、自分の議論をさらにクリティカルにしてくれるかもしれない。 ▼「議論の歴史性」に注意すること。 そのうえで、ほかの人たちの議論に「合流できる」ようにすること。 【「勉強する」とは、「文脈を知る」ということだし、そこで「合流する」ということだ。】
そんなわけでいろいろ読み散らしているが、読書行為への没頭と、自分の《焦点鮮度》とのバランスが難しい。 読む行為を優先すると「なんで俺こんな本読んでんだ?」ってなるし、自分の鮮度だけを優先すると文脈への合流ができなくなって、独りよがりのナルシスト思考になる。 ▼この辺はでも、アクチュアルな読書行為、《行動としての読書》の難しさなんだろうな。
反省的自意識ばかりになると何も書けなくなってしまう。
ここは少し、勢いに任せてメモ的に書いてしまおう。 反復もいとわず。



斎藤孝『教育欲を取り戻せ! (生活人新書)』

図書館の帰りに見つけ、本屋の店先であっという間にほとんど読んでしまう。 主張内容には文句があるが、資料として購入。 ▼ひきこもったりニートだったりへの「説教」は、《教育欲》だと考えればわかりやすい。 大人から若者への、若者間での、国家から個人への、《教育欲》。 本田由紀氏は教育が内面をいじることへの強い嫌悪を表明しているが、これは「規律訓練型 → 環境管理型」(東浩紀)をむしろ積極的な提言として、「システム的支援」として遂行することか。 ▼客観的能力としての職能(スキル)と、それを構成するための必然的要件としての内面的自発性*1。 教育における《能動性》という致命的モチーフ。 強引すぎる「内面への介入」を斎藤孝氏は「教育レイプ」と書いている。 ▼過剰すぎる「教育への情熱」という論点において、システムと能動性の関係がクリティカルに問われる【→ そこにおいて中間集団が果たす機能】。 ▼自分の自分への教育熱。 オタクの人が漫画世界に習熟するような、即自的没頭による人的資本蓄積*2と、自己を対象化して為される苦行のような自己教育(人的資本蓄積)。



*1:これは哲学や思想史では「主体 subject」とか「志向性」とかの伝統に連なるの?

*2:参照

規範と人命――「教育的介入」と「環境改善」

摂食障害不登校・ひきこもりへの医療的介入には、「医療の形を取った教育的介入」という要素がないだろうか。▼だからといって単にそれを悪者視はできないのが難しい。現実に人の命が懸かっているのだから。放置は事実上の「見殺し」を意味する【→「人権か人命か」】。 ▼たとえば引きこもりについて、「いつまでも好きなだけ閉じこもっていればいい」というのは、《規範》としてはぜひ確保すべきだが、現実の経済生活の問題としてはそれは「見殺し」を、つまり「悲惨の中に放置すること」を意味する。▼だから、「いつまでも閉じこもればいい」とのみ言う人は、最終的には当事者の扶養責任を引き受けるべきではないか。――ただしややこしいのは、そのような盲目的な規範ですら、個人を支えるに当たって役に立つ場合がある、ということだ(想像的誤解が個人を支える)。 ▼たとえば「不登校」は、実際にそのような状態に立ち至ったメカニズムは、「選択した」などというわかりやすいものではない。 しかし「選択したんだ」という想像的(imaginaire)な誤解が、短期的には、そして「社会的居場所を獲得するためには」、重要だったりする。 ▼マルクスに倣って言えば、「選択したんだ」という惨めな思い込みを解除するには、そういう思い込みを必要とするような、つまり登校する以外に選択肢がないような貧困な現実を改善するしかないのではないか。「選択したんだ」という思い込みは「不登校者のアヘン」かもしれないが、そういう思い込みを必要とするほどに現実の境遇は困難なのだ。



小田中直樹氏:「本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』」

 「ポスト近代型能力」は「近代型能力」を身に付けるために必要な能力であり、したがって後者のメタ次元に立つと考えるべきではないだろうか。

 年内は「主体性を教育する」という営みの可能性について書いて(正確には「書きなおして」)いるところだし、年明けからは「知識量と興味関心と思考力の関係」について書く予定なので

今日の僕のエントリーの霊感源の一つ。



「当事者」と「こども」

一部のロマン主義者にとっては、「こども」というのは、「絶対的な《当事者》」ではないだろうか。 天使であり、不可侵であり、崇拝の対象なのだ。 ▼「《当事者》というポジションの無際限な絶対化」と、「オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)」とは、論点として関係しないか。 ▼そうはいっても、当然ながら、「当事者」や「こども」は尊重の対象なのだ。
→ ここにおいて、「当事者を批評する」*1というテーマと、「子供を教育する」というテーマとが、その困難さにおいて並行しないか。 ▼「教育すること」と、批評的侵襲と。



*1:参照

リスク管理、セーフティーネット

TV番組「犯罪被害者 どう補償するのか」を部分的に観たが、犯罪被害について民事的に損害賠償を求めようにも、加害者に賠償能力がなければ「泣き寝入り」するしかない。 リアルに想像すると愕然とする。 ▼最近、建築士による構造計算書偽造が問題になっていて、公的に補償するか否か、という話が出ている。 すでに何人もの論者が指摘しているが、被害が軽微か少数者である場合には、まだしも直接的補償が検討されるが、極端に大規模な被害の場合、損害は放置される*1【善悪云々の前に、まずどうしようもない事実として】。 ▼社会参加の困難さの一端は、セーフティーネットの難しさに関連すると思う。 「お互いを支え合う」のではなく、自分を犠牲にして「巻き込まれる」という感覚。 過労死もそうだが、「わけのわからない論理で完全に手綱を握られる」恐怖。 それでも、脱落すれば死ぬしかなくなる。
僕の知人の何人かは殺人的なスケジュールで働いているが、それは事実上、偶然的事故の重なりによってそういう状況に「追い込まれて」いる。 精神はトチ狂っているが、マトモに物を考えている時間や余裕はなくなり、冷静に考えればあり得ないような判断を重ねて「こなす」だけの毎日が延々と続く。 ▼危機管理の問題が、自己責任になりすぎていないか。 社会に「踊り場」がない。 順調にのぼるか、転落するかしかない。 ▼「責任なき偶然の被害」は、この社会ではどう扱われているのだろう。



*1:極端な事例は、阪神大震災スマトラ島沖地震

景気と引きこもり

景気浮揚すればニート(若年就労)問題は改善する、という意見が経済学の専門家から出ているようで、確かに現在社会参加できずにいる人の一部はそれで大丈夫なのだと思う。 ▼しかし、バブル絶頂期に20歳前後を過ごした私(1968年生)は、景気が良かったにもかかわらず、社会参加できない状態に陥った。【80年代的な消費文化を楽しむ同世代からは完全に孤立した。】 ▼経済学者の議論においては、「景気が良くても社会参加できない」存在は(社会保障の対象として考慮する以外は)政策対象として黙殺してよいのだと思う(良い悪いではなく事実として)。



柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』 p.4-5

マルクスは、商品交換は共同体と共同体の間ではじまり、その結果、共同体の中でも個人間でもなされるようになる、といっている。しかし、当然だが、共同体や家族の中にも広義の「交換」がある。それは、贈与とお返しという互酬制である。これはマルセル・モース以来の人類学者によって強調されるようになった概念だが、未開社会あるいは共同体に限られるものではない。身近な例をとれば、親と子供の関係は互酬的=相互的 reciprocal である。親が子供の面倒を見るとき、それは贈与である。子供がそれに対してお返しをするかどうかはわからない。ただ、親にとってはたんに子供がいてくれるだけで十分に報われたと思うかもしれないし、また、親に対して何もしなかった子供は負債感情をもつかもしれない。こうした事柄は通常、交換とは考えられていない。実際、商品交換から見ると、これは等価交換とはいえないが、当事者たちにとっては等価交換なのである。

親子関係を「公正な交換」の目線で見ること。
「一方的に扶養してもらっている」わけだが、しかし本人としては「生まれたくなかった」。→ 親からすれば、「もう死んでくれてもいいから、扶養することをやめる」という選択肢もあるはず。 子供側からすれば、「扶養をやめてくれていいから、楽に死なせてほしい」があり得る。 命を天秤にかけた交換行為がそこで問われる。 ▼「こんな残酷な世界に産み落とした責任として、死ぬまで養ってほしい」という要求を親に突きつけたとして*1、そこに《交渉》が始まる。 しかし現実問題として、親に扶養能力がない場合、あるいは死亡した場合には、ひきこもり当事者は単に路上に投げ出される。 これは価値観論ではない。 ▼臨床的事実として、長期間閉じこもった人はそれだけ社会復帰しにくくなる。 「なるだけ社会復帰しやすい社会にしよう」という運動はぜひ私も続けたいが、もちろん一部の人にとってそれは間に合わない。 閉じこもることは単に自殺行為になる。 ▼閉じこもることをロマン主義的に語る人は、こうした冷酷な事情を考えていない。



*1:現実には、当事者の多くは激しい罪悪感に苦しみ続けている。 「これだけしてもらったのに、こんなことにしかならなかった・・・」