規範と人命――「教育的介入」と「環境改善」

摂食障害不登校・ひきこもりへの医療的介入には、「医療の形を取った教育的介入」という要素がないだろうか。▼だからといって単にそれを悪者視はできないのが難しい。現実に人の命が懸かっているのだから。放置は事実上の「見殺し」を意味する【→「人権か人命か」】。 ▼たとえば引きこもりについて、「いつまでも好きなだけ閉じこもっていればいい」というのは、《規範》としてはぜひ確保すべきだが、現実の経済生活の問題としてはそれは「見殺し」を、つまり「悲惨の中に放置すること」を意味する。▼だから、「いつまでも閉じこもればいい」とのみ言う人は、最終的には当事者の扶養責任を引き受けるべきではないか。――ただしややこしいのは、そのような盲目的な規範ですら、個人を支えるに当たって役に立つ場合がある、ということだ(想像的誤解が個人を支える)。 ▼たとえば「不登校」は、実際にそのような状態に立ち至ったメカニズムは、「選択した」などというわかりやすいものではない。 しかし「選択したんだ」という想像的(imaginaire)な誤解が、短期的には、そして「社会的居場所を獲得するためには」、重要だったりする。 ▼マルクスに倣って言えば、「選択したんだ」という惨めな思い込みを解除するには、そういう思い込みを必要とするような、つまり登校する以外に選択肢がないような貧困な現実を改善するしかないのではないか。「選択したんだ」という思い込みは「不登校者のアヘン」かもしれないが、そういう思い込みを必要とするほどに現実の境遇は困難なのだ。