ようやく

波状言論*1第5・6号の鼎談「リベラリズム動物化のあいだで」(北田暁大×鈴木謙介×東浩紀)を読み終えた。前回の宮台鼎談とこの北田鼎談、僕にとって「必要なもの」です。「ヒキコモリ」に興味があってこれら鼎談を読まれた方、ぜひ交流持ちたいです。


まとまりを気にしているとまた書けなくなってしまうので、箇条書きでいま思いついていることをメモしていきますね*2。あなたが気付いたことがあったらまた教えてください。 


2つの鼎談からは、

  1. 流動性の高い世界で、自分を支える難しさ
  2. 「コミットする」と「しない」
  3. 「動機づけ」の難しさ
  4. 「抽象的な理論」が必要である理由は?

ひとまずこれぐらいを大事な問いとして受け止めた。



*1:順次バックナンバーも販売されるようです。

*2:これまでに触れた論点も多いですが、ひとまず現時点でのメモということで。

「理論家」と「当事者」のミゾ

知性と教養とフットワークのある人たちの影響を受けて、僕らの議論を鍛え上げる必要がある。「コミュニケーション」よりは「議論」が要るよ!

  • 理論をやっている人から見ると「上山は理論できない」となって、逆に当事者からすると「上山は難しいことばかり言ってる」となる。
    • とりあえず、苦痛の現場から言説を立ち上げるしかない。「理論を作る」ためではない。実際に苦痛やトラブルに取り組むためだ。
    • 「アイツは鋭いこと言ってるよ」と評価受けるような人間が当事者からもっと出ないことには。


  • 僕は以前、「『語られる』存在から『語る』存在へ」と語っていたはずだった。なのに先日は「自分にできるのはサンプル提示だけだ」と卑屈なことを語っていた。うーん。僕の野心はどこへ向かうべきか。(「当事者」というポジションに出来ること、「専門家」に任せるべきこと)
    • 「『野心』とか口にする前に、まず『食える』ようになれよ」というごもっともな批判が聞こえてくる。でも、僕の考えるに、「野心的に打って出る」姿勢が持てなければサステイナブルじゃないと思うんですが。いや、もちろん「取りあえず食えるようになる」が野心であってもいいんですが、僕自身は「食えるようになる」こと自身を自己目的的に野心にすることができないので・・・・(「生きること」自体は僕にとって基本的に苦痛でならない)。
    • 積極的な事業意識が持てれば、意識もクリアになるし、その事業を誰かと共有できる道も開けるかも知れない。
    • 個人的には、「具体行動を生み出す問い」の名手でありたい。問いの明確化はそれ自体が大きな貢献だと思う。




「書き込んでいいんですか?」

メールやオフラインで、「私なんかが(コメント欄に)書き込んでいいの?」とたまに言われる。①当事者以外の方は「当事者共同体」への配慮から、②当事者は「私ムズカシイ話わからない」、③親しい知人は「馴れ合うのも変だろ」、④「専門家」の方々は「私が書き込んだら荒れるか引かれるかするでしょう」。

  • ①当事者同士が安心して交流できる社交場も必要だと思う。だが僕自身は、当事者とそれ以外の人々がどうやって開放的に交流を持てるか、に興味がある。当事者の内部に留まりつつもなるだけ一般的な言葉使いを心がけているのは、共同体内部に閉鎖的に閉じこもりたくないからであり、外部との疎通性を保つためだ。「当事者以外は書き込むのがためらわれる」としたら、その状況は少しずつでも変えていきたい。
  • ②「為にする難解な話」などするつもりはない。そんな理論ごっこは趣味人に任せておけばいい。僕は具体的に苦痛に取り組むために必要な議論を模索しているのであって、それ以上ではない。▼「上山みたいに難しく考える必要はない、金さえ稼げればいい」という人がいるが、その金が稼げないから苦しむんじゃないか。だから対策を考えざるを得ないんじゃないか。▼あなたの苦しみに即して考えてくれるんならば、それが「理論」でなくてもいいです。ムズカシイ思想家の名前だす必要ないです。
  • ③馴れ合うのはヘンかね。開放性を維持するという基本方針さえ保っていれば、楽しく遊ぶのもいいと思うのだが。僕には遊んでくれる人がいないという事実はこ(ry
  • 精神科医・カウンセラー・教職員・支援団体スタッフ・研究者の方など、当事者と一線を画している(あるいはその必要がある)方々でも関われる場にしたいです。




北田暁大という方

の発言にはじめて触れたのは昨年の「嗤う日本のナショナリズム」で、その感想も少しだけ書いたが、今回の鼎談でさらに興味を強めた。メルマガの鼎談から直接引用するのはマズイと思うので、ネット上の北田氏の発言からいくつか引用。

  • 他人の自意識をせせら笑う皮肉屋自身が、誰よりもナイーブに自意識を肥大させている
  • 「お前モナー」ばかりが増殖して、「漏れモナー」がない(自分を相対化することに耐えられない)
  • 「現在」だけを生きていて歴史感覚がない(5分前の歴史さえ参照しない)
  • 動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。

・・・・さて、ヒキコモリ当事者の苦痛に取り組むのに『責任と正義』(ISBN:4326601604)を読む必要あるでしょうか。



「残酷さが足らない」

ヒキコモリ当事者はある意味きわめて「素朴」なのだが、そういう素朴さは「ヒキは氏ねw」という悪意の強度に勝てない。当事者独特の残酷さを持つ必要がある*1

  • ヒキコモリが社会的に追い詰められていくことに抵抗するには、①思想的反論 ②経済的自立、の両方が必要。
    • 「経済的自立さえ果たせれば、難しい話は必要ない」、「この社会では、合法的に金を稼いでさえいればどう生きようが勝手なんだから」というのはそうかもしれない*2。だが、思想的な議論の意義をまったく認めない当事者は、戦略的な意識というものをまったく持てていない。繰り返し言う。戦略的な意識を持てない当事者が多すぎる。社会的弱者であり、政治的敗北者であるというのに。
    • ヒキコモリ当事者への干渉主義的(パターナル)な批判は、それ自体が思想的態度だと言える(自分が直接養っているのでもない人間に「お前の生き方ではダメだ」と言っているわけだ)。また、経済的自立が難しい理由には、年齢差別などの社会的バイアスも影響しているはず。 → ボーッとしていてはやられる一方じゃないか?


  • 当事者の窮状を個人レベルのダメさ加減に還元する思考自体が一つの思想だ。
    • 「現在」しか見ない目にはヒキコモリが無歴史的な永遠の相のもとに見えるかもしれないが、やはり歴史的・社会的な側面も持つはず。
    • 「30才以上のヒキ?終わってるだろw」という言い分は、年齢差別に加担して絶望を煽っている(誰かを見下して楽しみたいだけ)。 → 「年齢差別という厳然たる現実」から絶望して終わるのか、それともそうではない何かを模索するのか。「自分はもう生きていけない」という絶望自身が社会的に形成されている面もあることを考えるべきではないか。
    • もちろん、「ヒキコモリの連中は、自分で稼げもしないくせに口ばかり達者」という意見もわきまえた上で考えるべき。稼げずに社会的弱者に留まっている状況を変えるには、具体的に稼いで生きていける状況を作らねばならず、そのためにはコミットが必要だ。




*1:僕が思うに、この「残酷さの欠如」は、ヒキコモリ当事者における笑いの文化の欠如に症候的に現れている。「笑い」には、自己と他者を突き離す残酷な視点が不可欠だと思うのだがどうか。

*2:これについては異論があると思う。「経済的自立を果たしていても思想的反論が必要な局面はある」。だが、「生き延びることさえできない」と苦しんでいる人間からすると、それは少々迂遠な言い分だ。ヒキコモリ当事者にとって「経済的自立」こそが最大の難関なのだから、それをクリアしていることを前提にした議論は他人事に聞こえてしまう。――ただし、思想的反論自体が積極的社会参加のモチベーションになって人生を牽引することだってある。ややこしい。

コミット不能

というわけで「コミットの必要」というのが出てきてしまったんですが、上記2鼎談でも繰り返し語られている通り、ヒキコモリというのは「コミットできない」という状態なわけで。くそ。厄介だ。

  • 「生きていくことができない」 → ①思想的 ②経済的
    • 「意識自体が身体的にキツくなってしまう」――この苦しむ身体的意識*1、その成立自体が社会的・歴史的?
    • ヒキコモリは、言葉を失ってゆくプロセスだ。 → 「泣き寝入り」という、ヒキコモリの根本性格。 → 「言語訓練」でなんとかならないか。
    • 「生活について考える」と「実際に生活してみせる」は別。「お笑い論」と「お笑い実演」が違うように。笑いについて考えている人間が実際に笑わせられるわけではない。
    • 「よくイラクなんて危険なところに出ていくよ」というのだが、「よく社会なんていう危険なところに出ていくよ」。行かなければ生活できない? じゃ、家で死ぬしかない――そんな感じか?


  • 「社会的インポテンツ」という比喩、問題あるでしょうか。
    • 「インポテンツ」はふつう「男性の性的不能」を指すのだが、単なる「下品な比喩」でしかないか。
    • 「性的不能」という表現自体が「性交すること」を無条件に肯定すべき価値としているのと同じく、この比喩でも「社会参加」が無条件に肯定されている。「社会参加しないのはダメ」。
    • 多くの人の頭の中には、こういう比喩の思考回路が無自覚に存在しているのではないか。


  • みずからの経済的貧困以外に社会参加のモチベーションがあり得ない、という事実を見据えるべきではないか。
    • 北田氏にならって言えば、ヒキコモリ当事者はいわば「動物的に」死んでいこうとしている(「人間的」なら、飢えそうになったら働くだろう*2)。そういう人に「説教」してもはじまらない。萎縮させるだけ。 → 「届く言葉」、あるいは、言葉でダメならば、他の形ででも「動機づけ」が必要なのだ。そしてそれが最も難しい。





杉田さんから昨日のコメント欄にいただいた書き込み :

自分の意志でひきこもっているのか、他者や制度や世間圧力によってひきこもらされているのか、その辺の微妙なかねあいはちゃんと(責任転嫁にならないかたちで)考えると面白いこともあるかもしれないな、とか思いました

『弱くある自由へ』(ISBN:4791758528)というタイトルは魅力的ですね・・・・。著者の立岩真也さんはやはり(!)社会学者で、『自由の平等〜簡単で別な姿の世界』(ISBN:4000233874)という本も書かれてる。――けっきょく、ヒキコモリの問題を考えるには社会学的論戦が必要だということなんでしょうか・・・・。困ったよ俺ぜんぜん勉強してないよ・・・・。



*1:東氏と北田氏がオタクや広告を素材に交わしていた身体論は興味深かったが、ヒキコモリの「苦しむ身体的意識」は、どのような位置づけを持つだろうか。

*2:主観的には、過剰に厳密なコミュニケーションを求めたり、まさに「人間的」なのだが。

嫉妬 ・ shit ・ shit-hot

  • 人間は、自分に似た存在にいちばん嫉妬する。親が破格の資産家で「一生働かなくても食っていける」みたいな奴はあまり嫉妬されないのに(要するに別格)、「お隣の中流家庭のヒキコモリ」は嫉妬される。
    • しかし、金を稼げず恋愛もセックスもできず、社会的承認の機会もなく――そんな人生が嫉妬されるってどういうこと? 要するにみんな「社会になんか出たくない」、「働きたくなんかない」わけだよね。この世は地獄なんだよ、誰にとっても。だから、家に閉じこもって食えているというだけでなぶり殺さなければ気が済まないわけだ。「働かずに食えた上に社会的承認まで与えてたまるか」、「お前も苦しめ」。
    • 何度も言うけど、親の金で楽しく人生を謳歌している裕福な人たちが嫉妬されないって、どういうこと? なんで、陰湿に苦しんでいる人間が嫉妬されイジメられ、陽のあたる王道を親の金で歩いている人間は讃美さえされるの?


  • ヒキコモリ当事者間の嫉妬、というのもないか?
    • 友達ができた、恋人ができた、就職した――いちいち嫉妬の対象になる。まさに、「自分と似た存在」だからこその、強烈な嫉妬。情念の泥沼での足の引っ張り合い。
    • 嫉妬とは無縁のカラカラの場所で取り組みたい。イジケた状態を抜け出したい。