和樹と環のひきこもり社会論(19)

(19)【逃げられない動機づけ】 上山和樹

 「なぜそれをするのですか?」。これは、ひきこもりについて考えるときに、どうしても必要な問いだと思います。
 欲望がないと言いながら情熱的にひきこもり論を続ける私の矛盾をついたあと、斎藤さんは、ご自分の欲望をもはっきりさせなければ「フェアではない」とおっしゃった。これこそが、ひきこもりを論じる人に必要な姿勢だと思うのです。人の動機づけにかかわって意見しようとしている本人は、それによって何をしようとしているのか。本人を救いたいのか、それとも税収を増やしたいのか。
 ひきこもっている人は、くり返しくり返し、「なぜひきこもっているのか」を問われます。なぜかといえば、社会に参加するのが当然だとされるから。ひきこもり支援とは「社会復帰させること」だし、支援者は自分の仕事について、「いかに復帰させるか(How)」を考えればいいのであって、「なぜ復帰させるのか(Why)」は考えなくていいことになっている。ここに、根本的なすれ違いを感じます。
 ひきこもりには、何か狂暴で不可抗力の強さがあります。なぜそうなってしまったのかはよく分からないものの、それはあまりに強い方向付けなので、再びそこから社会に出て行くためには、ものすごく強い動機づけが要る。そもそも、社会に復帰したってズタボロになることが分かりきっているのに、なぜそこまでして復帰するのか。――このままでは死ぬかもしれないと言われてもそれでも動けない人を、合理的な説得によってどうこうできるでしょうか。
 私は、自分をひきこもりに導いたのと同じ「非合理な情念」に導かれて、議論を続けています。どうしても無視してはいけないはずのリアリティをみんなが無視しているのが、どうしても耐えられなくて。
 ひきこもることが、「このまま死んでもかまわない」と思うような最後の自衛策だとしたら、もう一度社会に関わるためには、「自分を守る」のとは別の、逃げられない動機づけが必要なのだと思います。