和樹と環のひきこもり社会論(17)

(17)【少し議論を整理します】  上山和樹

 「ひきこもりというのは、精神でも身体でもなく、自由そのものに障碍がある状態だ」というのが、この往復書簡の(不可解な)出発点でした。そこで私たちの課題は、その「自由の障碍」の中身について検討し、「どうすれば自由になれるか」を考え出すことでした。
 家に居続けるのが自由なのか、外に出て働こうとするのが自由なのかも分からないまま、とにかく「ひきこもるしかない」という、命懸けの苦しい事情について、詳細な検討が始まりました。細かいメカニズムがわからなければ、「どのように自由になるべきなのか」がわからないし、そもそも公正さの見地から言って、望まれる自由を追求していいかどうかもわからないからです。(世間的には、ひきこもるのは「卑怯な自由」であって、社会に出て働くのは「正当な不自由」なのでしょう。だから嫉妬される。)
 斎藤さんはカフカの『掟の門』を出し、「門から社会に出ること」を考えようとした。しかし私は『河童』(芥川龍之介)から、「同意もせずに産み落とされてしまうこと」の理不尽を言い、そこから見ればカフカの「掟の門」は、むしろ「この世からの退出口」に見える、と言ったのでした。社会に出ることが自由であったり、家に居ることが自由であったりするのではなく、この世に居ること自体が不自由であって、しかしその出口で、どうしていいか迷っている・・・。
 そこから私たちが試みたのは、「この世を欲することができるのか」という、究極の宗教的な(ニーチェ的な?)問いだったのだと思います。社会参加できる人は、まるで無自覚な信仰者のように、労働や人生を続けています。ひょっとすると、すべて無意味かもしれないのに・・・。
 そうした観点からすると、ひきこもっている人は、「あまりに理性的に懐疑し、覚醒してしまったがゆえに、もはや世界に興味を失った人」と見える。
 私たちの議論は、この「興味を失う」の中身について、もう少し検討すべきではないでしょうか。