和樹と環のひきこもり社会論(15)

(15)【洗脳拒否を共有すること】 上山和樹

 「自分の人生はこれでいい」という納得は、私たちはどのように調達しているのか、あまり意識していません。死別や事故、思いがけない心身症、耐え難い人間関係、あるいはよくわからない意識の混乱によって、それまでの「納得の前提」がくずれ、「こんなことでは、とても生きていられない」と追い詰められる。――今までのやり方では、無理がある。でも、それは無理ではなくて、「気合で乗り切るべきもの」かもしれない。「これでは耐えられない」と感じているのは、自分が悪いのかもしれない。
 症状というなら、懐疑をやめられないのが症状です。どうすればいいのか、際限なく探してしまう、ドキドキしてもやめられない。そうかと思うと燃え尽きる。それは斎藤さんのおっしゃるとおり、自分と家族を追い込むだけの「悩みのループ」に成り果てる。
 しかし、疑うことをやめればいいのでしょうか。疑いを持つことをやめれば、この社会を受け入れ、自分の事情を受け入れて、生きていけるかもしれない。でもそこには、「洗脳されただけなのではないか」という恐怖が、ずっと付きまといます。
 斎藤さんは、そういう懐疑地獄を「抜け出すべきだ」とおっしゃるのですよね(その方法の一つとして、「オタクになればいい」と)。でも、疑いを持つことをやめさせようとするのは、方法はどうあれ、けっきょくは(社会的な)ロボトミーではないでしょうか。
 懐疑をやめられないということは、つねに真摯に反省し、分析してしまう、ということでもあります(ひどく下手ですが)。それは実は、やむにやまれず現実に巻き込まれる皆さんにとっても、必要不可欠であるはず。――だとすれば、ひきこもっている人に「懐疑をやめろ」というのではなく、逆に過酷な現実に苦しむ方々が、そのような懐疑を自分のものとし、そこでコミュニケーションを始めることはできないでしょうか。分析的な意識を共有できれば、過剰な懐疑は自然に緩和されるし、それはすでにして、「社会参加」の形だと思うのです。