和樹と環のひきこもり社会論(7)

(7)【「娑婆から出てはならない」という掟】  上山和樹

 カフカの『掟の門』と芥川の『河童』から、掟の門を「産道」と捉える解釈を示していただきました。ひきこもっている状況は、「生まれたくない」、つまり「くぐりたくもない」門の前で通行止めにあっている状況ではないか、と(誰も通行止めなんかしていないのに)。
 そもそも私たちは、現実世界への門を「くぐりたい」と思うべきなのでしょうか。ひきこもっている人は往々にして、「なんとか外に出なければ」と思い込みすぎていますが、実際には外の世界はあまりに過酷で、友人の比喩によれば「熱すぎるお風呂」みたいなもの。かなり限界的に我慢しなければ、いや致命的なヤケドすら覚悟しなければ、とても入っていられません。斎藤さんは前便で、「言葉を話している以上は、すでに欲望があるはずだ」とおっしゃるのですが、それは「いくら社会生活を嫌がっていても、本当は外に出たいはずだ」ということでしょうか。
 考えてみれば、いくら引きこもっていようとも、それはあくまで社会の中にあります。家族は「子宮」として引きこもりを維持しますが、その子宮=家族自体が、社会的に支えられている。だとすれば、ひきこもっている本人だけを単独で取り出し、家族の側の都合を無視して、肯定したり否定したりはできないはずです。私たちは門をくぐるより前に、すでに関係に巻き込まれている。「私はまだ生まれていない」というのは、何かを否認することでしかないはずです。
 そもそも、斎藤さんの持ち出された「掟の門」は、本当に「社会への出口」なのでしょうか。ひょっとしたらそれは、「社会やしがらみからの退出口」ではないのでしょうか? ひきこもろうが何をしようが、生きている限りは欲望があり、人間関係があり、娑婆苦にあえぎ続ける。「あの門をくぐれば、もう二度と何も感じなくてよい」としたら・・・? そしてその門の通過を、現世的な「掟」が許さないとしたら・・・・?