【2月8日】 多賀茂 × 三脇康生 【参照】

多賀氏は冒頭でドゥルーズシネマ1』の前書き原文を参照し、「ひとの外にある現実」と、「ひとの中にある現実」の境界を語った。 物質でも観念でもない「イマージュ image」、「ひとの中にあるひとの外」である無意識。 私はそれを聴きながら、「だからこそ着手のポイントになる」と理解していた。 外か内かに分かりやすく置かれたものは、もはや着手を許さない。
以下、ドゥルーズによる『シネマ1』まえがき原文(PDF)からの一部と、邦訳や多賀氏の説明を参照した拙訳(強調は引用者)

 Bergson écrivait Matière et mémoire en 1896 : c'était le diagnostic d'une crise de la psychologie. On ne pouvait plus opposer le mouvement comme réalité physique dans le monde extérieur, et l'image comme réalité psychique dans la conscience.
 ベルクソンは、1896年には『物質と記憶 (ちくま学芸文庫)』を書き上げていたが、これは心理学のある危機についての診断だった。 人々はもはや、外部世界の物理的現実*1としての運動を、意識内の心的現実としてのイマージュと対立させることができなくなっていた。

以下、多賀氏の配布した資料と説明の一部より。



多賀氏の講義では内界と外界の関係が歴史的に説明されたが、三脇氏では「戦力」と「非戦力」*3の関係が問題となった(以下、大意)。

 戦力になる者とならない者の固定された線引きが、抑圧的な制度を成している。 第二次大戦時のドイツでは、戦力にならない者(精神病者や“退廃芸術家”)は殺害・収容された。 しかしベトナム戦争後の『DSM-III』(1980年)以降、「戦力やスタッフもPTSDになる」という実情暴露的な理解*4が広がり、「戦力/戦力外」あるいは「スタッフ/患者」という線引きの変化や再考察がみられる。
 たとえばハンス・セリエのストレス stressという概念が多用されるようになったが、これは「戦力・スタッフ側も苦しんでいる」という発想が許されなければ扱えない*5。 そもそも、「戦力/非戦力」という役割固定じたいが臨床的な害になり得る。
 精神医学には反精神医学、芸術には反芸術と、メインストリームに反対する運動がかつてあったが、重要なのはここでも「正/反」のどちらかを選ぶことではなく、両者を区切る「線上で」考えること、そこにつねに連れ戻されることだ。

ここでは、役割を固定する《制度的仕切りの一元論》*6への挑戦が、image や無意識をめぐる境界線上の取り組みに重ねられる。 完結した仕切りに安住できる者には、制度的境界を問題化する営みがない。 固定された線引きによるマッチポンプ的な暴力が見えない。(言葉を換えれば、「弱者」という役割に居直る者も暴力であり得るということだ。)



止まっているものを《動かす》ことが、芸術と臨床の仕事ではないのか

お二人の議論を聴きながら、ここ数日のレクチャーやワークショップでの問題意識が急に結晶したので*7、それをそのまま質問した。(以下、わかりやすいようにやや補足しつつ):

 丹生谷貴志さんと鈴木創士さんのトークでは、「芸術はかつて永遠化の活動だったが、19世紀に《神=永遠》が死んだことで、何をしているか理解されなくなった」とありました(参照)。 その後の試行錯誤もやり尽くされたし、「いまさら芸術は何をするのか、もはや何をしたところで、新しいものはない」というわけで、その「終焉」じたいが永遠化し、日常になってしまった。 今は、この「永遠化した日常」こそが苦しいわけです。
 今日の多賀さんのお話では、19世紀には写真が発明されて、「固定する」ことが医療や権力の活動だった。 また三脇さんのご発表では、硬直した役割の線引きを柔らかく生き直し続けることが臨床性につながる、というお話でした*8
 そこで思い付いたのですが、19世紀までの芸術や臨床というのは、《固定する》ことをひたすら目指していた。 しかし今では、固定したものを《動かす》ことが芸術家や臨床家の活動ではないでしょうか*9

「固定したもの」というのは、文字通り静止しているだけではなくて、「ルーチンをこなすだけになっている」という意味でもある*10
たとえば『エヴァンゲリオン』というアニメ作品は、90年代後半の膨大な人々を「語る」行動に駆り立てたが、あれはまさに人を「動かした」といえる。(そしてこの「動かす」という課題は、経済学の用語でいえば「景気」の問題にかかわる。)


美術作家であり嵯峨芸大の教員でもある大島成己氏は、ご自身が学生を指導するときのお話をされた(以下、大意)。

 制作課題で「何を作ればいいか分からない」という学生には、コラージュを勧める。いきなり切り貼りするのではなく、まず膨大な資料の中から、「なんとなく気になったもの」をランダムに切り抜いていく。あるていど集まったところで切り抜きをならべ、自分がどういう傾向のものを切り抜いているかを検証してみる。 「赤いもの」だったり、「丸みを帯びたもの」だったり、政治的な新聞記事だったり。そこにはある程度、自分でも気づいていない無意識的なこだわりのようなものが表れているだろう。 そしたら今度は、自分が切り抜いたものから、新しい作品としての構成を考えていく。そこで初めて編集の作業が入る。

これは、いきなり制作に取り組もうとして動けなくなった人に、動きを導入するための技法のようなものであり、無意識的なものを活性化するための臨床上の技法と重なる。
これ以外にも、「制作実技への指導」は、対人支援のヒントをたくさん含んでいるように見える。 重要なのは、それが「結果物への裁断」という以前に、制作過程への分析的な介入であることだ。


その(3)へつづく】


*1:邦訳(p.1)では、「réalité」が「実在」と訳されている。

*2:茂木健一郎氏の「脳」一元論は、この当時と同じ事情に見えるのだが…。

*3:戦争中でなければ「スタッフ」と「患者」

*4:実情暴露こそが制度分析につながる、という重要なポイント。 ベトナム戦争では、戦場にリアルタイムの映像メディアが入り、刻々と現状が報道されるとともに、帰還兵の多くが社会復帰できない現実が(帰還兵のデモなどにより)暴露された。 1980年に公開された『DSM-III』は、それ自体が強い政治色を帯びた返答になっている。 ▼ひきこもりや労働運動系のグループについても、実情を考えなおし、その再考じたいを臨床上の契機としたいが、肝腎の事情にかぎって関係者が公開(素材化)を嫌がる。 うかつに素材化を提案すると、提案者だけが排除・攻撃されて終わってしまう(つまり《関係者の当事者化》こそが禁圧されている)。 ここではいわば、裁判過程と症例検討会に、同時に取り組もうとしている。 国家権力の後ろ盾なしに裁判過程を運営しようとすれば、収拾がつかない…。

*5:かつて兵士は、弱音を吐いてはいけないものとされていた。 弱音の禁止は、「弱音など存在しない」という集団的な否認になる。

*6:私が勝手にそう呼んだ

*7:一連のイベント参加を通じて、「講義を聴く」ことの貴重さを再発見しました。 歴史的いきさつや概念を声で説明されつつ、今の私たちを検証すること。 けっきょくそれは、自分の中に動きを作り動機づけを生み出すことでもある(逆に言えば、そういう動的分析になっていないメタ画像のような講義は退屈でしかたがない)。 時間的にも空間的にも多軸性・複層性のある素材化は、「精神」分析というよりは、「制度」分析と呼ぶ必要があります。

*8:単なる反精神医学や反芸術は、もうひとつ別の対抗的な制度を硬直させることでしかない。

*9:これは宇野邦一氏の講義でいえば、「《日常=クロノス》に、どうやって《非日常=アイオン》を導入するか」というテーマになる(参照)。

*10:結果物がある程度売れてしまえば、生産者は生産過程を固定し、輪転機を回すような生産活動に入ることが多い。 ▼ひきこもる人は、固定した自分の意識の再生産構造から抜け出せなくなっている。