NHKスペシャル 『遺された声』

「第二次大戦中、戦意高揚のラジオ放送のために録音された声」の番組。
今日のエントリー原稿を書き上げたあとだった。
それぞれに、自分の置かれた立場と思惑があって…
誰も何も聞いておらず、お互いに共有しているはずの前提を確認し合っているだけのような会話…  誰も前提を疑わない…  妙に明るい…   
弱い立場に置かれた者…





オンライン講義

12日のコメント欄に、tpo さんからの情報(ありがとうございます)。

なんだ慶応か、東京じゃないか、と思ったら、なんと一部の講義はオンラインで聴ける(間もなく有料化のようですが)。


先鋭的な講義もうれしいですが、むしろ「○○学入門」とか「○○学史」など、基礎教養的な授業を常時無料でオンライン公開してくれていたら…。 → 社会的にも意義の大きいことじゃないでしょうか、「最低限の啓蒙ラインを無償で提供する」というのは*1







*1:って勝手なこと言ってます? 何かの本で、フランスの大学では一般市民も無料で聴講できる、とあったような…。

「コミュニケーション」 → 「たたかう」

chiki(id:seijotcp)さんよりいただいた「コミュニケーションしかない」という視点から考えていたのですが、そこであらためて、≪たたかう≫という要因がせり上がってきた。
12日のエントリーでは、僕は「コミュニケーション」の中に「たたかう」という要因を入れていない。 当ブログではくり返し「たたかう」という要因に触れてきたはずなのに、どうも僕自身がウンザリしていた ―― いやそれとも、「残された人生の時間のすべては、たたかうことに費やされる」という事実を、認めたくなかったか*1。 「ひきこもり」が、「最悪の形での政治的敗残」だとしたら(それが以前からの僕の主張だった)、「たたかう」という要因を無視できるはずなどないのに…。


今日はひとまず、メモ的に列記するにとどめる。 多くは、すでに論じたことの再整理です。 (以下、段落分けは便宜的なものです。 順不同。)









*1:宮台真司氏の本に、「先行世代の先駆的なゲイが、若い世代のゲイに煙たがられる」という話があった(掲載本を失念)。 ゲイの社会的受容のために確実に成果を出してきた、しかし悲壮感漂う(?)戦闘的な先行世代に対して、「ありがとう、でもウザイよ」ということか。 → 同性愛の場合、デザイナー・芸術家などの著名人や、「オカマ枠」と呼ばれたりする芸能人の存在が社会的受容基盤を作った面があるのかもしれない。 しかしひきこもりに関して、そんな受容ルートが今後あり得るか? あるいは「なしくずしの受容」が? むしろ今後はどんどん非寛容の方向に向かうように感じているのは僕だけか?

「中立」のあり得なさ、戦線の複数所属

  • 「ひきこもりについて論じる」は、すでに「戦う努力」になる。 「客観的・中立的なひきこもり論」はできない。
    • これは、『当事者主権』ISBN:4004308607 で記述された「当事者学」の基本特徴。 「客観性・中立性」を要求されれば、「当事者学」自体が成り立たない。
    • ≪コミュニケーション≫ → 「共闘」*1と「批判」。 「コミュニケーション」とは、「仲良しごっこ」だけではない(というか、無条件の融和を前提すれば、かえって「コミュニケーション」は成り立たない)。
    • 「問題のツボの共有」は、必ずしも「意見の共有」ではない。
    • 「ひきこもり」ほど、戦おうとする当事者個々人が孤立してしまうジャンルがあるだろうか…。 「論点の共有」すら、なかなかできない。 → 身も蓋もないが、「ひきこもり」というのは、≪たたかう≫ことにおいて最も拙劣な者たちなのだ…


  • 「たたかう」と言っても、おそらく所属戦線は単数ではない。 核となるテーマはあるかもしれないが(みずからの当事者性や切実さが最も強調されるテーマがそれにあたるか)、一つのテーマに取り組もうと思ったら、考慮しなければならない論点は複数出てくるはず。 「ひきこもり」ではとりわけその感が強い。 ジェンダー、年齢差別、労働環境、社会的排除、……*2
    • 「ひきこもりというテーマにとっては、どんな論点を用意しなければならないか」を整理するだけでも、一仕事。 → 僕は「新しい論点を出す」というよりも、ひとまず著書や当ブログでこれまでに出してきた論点を整理する仕事に回るべきかもしれない。
    • 「何に腹を立てるか」に、自分が一番よく表現される。
    • 「たたかう」というとふつう「現世に勝ち残る」ことが前提だが、ひきこもりの場合、「現世から退却したい」というベクトルすらある。 → 「弱者は、死にたければ首を吊れ」というだけなら論点にすらならないが。 負け組の自殺は、「悲惨の中に放置される」べきか。






*1:この単語をギャグ以外で使うのは、やっぱ無理かなぁ…。

*2:すでに論点が重なってる

バラバラ、順応、創る

  • 「当事者」は一枚岩ではない。
    • id:matuwa さんのご指摘。 これについては僕もくり返し指摘してきた。 社会生活を送っている人がバラバラであるように、「ひきこもり当事者(経験者)」もバラバラ。 ついでに言えば、支援者もバラバラ。 共同戦線と呼び得るものは(まだ?)ない。
    • 「ひきこもりであるか否か」という状態像における帰属ではなく、「論点を共有できるか否か」という論点帰属(?)だけを考えるべき【 → 「自称ひきこもり」】。 当事者であっても敵であり得る。 当事者でなくとも味方であり得る。
    • 僕は神戸で大震災に遭ったので、他府県のかたから見れば「被災者」の1人だが、神戸の住人同士のあいだでは、微妙なところもある(家族が死んでいないのに「被災者」を名乗れるか?など)。 → 経験も違っているし、たとえ「同じ経験」をしていても、それに対する思想(態度)が違うことがある*1


  • 「順応」と「たたかう」
    • 「稼げるやつが強い」という既存価値観とどう付き合うか。 → 「自分も稼げるようになる努力」と、「稼げなくてもいいじゃないか」という主張とを同時進行させる必要がある。
    • 「順応」だけを考えていると「治す」という発想だけになる。 しかしむしろ、「戦い始める」を目指すべきではないか? 治療とは、「本人が自分のたたかいをできるようにする」ことではないか。 「洗脳して順応させる」のではなく、「君は君の論点でたたかいを始めろ」。 → 「戦わずとも生きていける状態を実現したい」は、さすがに無理な願いなのか…。


  • 「創る」要因と、「たたかう」要因
    • 「創る」要因がないと、やみくもな自己防衛の消耗戦だけになる。 ひきこもりに関しては、これではどうにもならない。 「PICSY はどうだろう」など、新しい選択肢の創出と実演が不可欠。
    • (何度も言っていることだが、)「本当にいいものを創り出す」のが、最善の戦略のはず。






*1:「犯罪被害者」にも、同種の事情があると聞いている。

「論じることを論じる」、性愛、シニシズム

  • 「ひきこもりを論じることを論じる」必要がある。
    • chiki さんが、「反ジェンダーフリー言説」のリンク集を検討されている。 同様にして、「反ひきこもり言説の事例集」を類型化する必要が、やはりあるか*1。 → そのサンプルの多くは、ひきこもり当事者(経験者)から提出されている。 「ひきこもり脱出組」の多くは、さらに強烈な「反ひきこもり論」を提出している。
    • ひきこもりは、単に擁護すればいいのではない。 擁護そのものは、サバイバル(あるいは現世からの退却)努力の一部でしかない。 「自分たちで問題に取り組み、成果をあげてゆく」努力が、どうしても要る。
    • 「メタ(だけ)に立てる」と思うのは間違い。 僕らはすでに、オブジェクト・レベルで利害関係に巻き込まれている。 本気で「巻き込まれたくない」と思うのなら、死ぬしかない。 いや、じつはそれでも周囲に(わずかだが)影響はある。


  • 自分なりに戦う努力を続ける中で、その論点を共有してくれる、もっといえば「いっしょに戦う」要因を部分的にでも共有できるときにだけ、性愛対象*2との(維持可能な)関係はあり得るのではないか。 直接相手を目指しても、ダメだと思う(引かれるだけ)。
    • 「性愛がゴールで、≪お付き合い≫のために(もてるために)戦うのか?」と言われそうだが、もうこの辺は水掛け論になるのでやめておく。 ただ、真剣に考える努力がどの程度のものなのか、その程度のことはお互いに見抜けるのでは?
    • 僕が当ブログで女性に対する支持的な発言をするたびに、その≪裏の意図≫を詮索する向きもあるようだが、それは僕に対しても、相手の女性に対しても失礼極まりないということは指摘しておく。 【「女といちゃつきたいだけだろw」と言っている人には、「性愛」以上の課題設定が思いつかないのだろう。 それも「シニシズム」の一側面ということか。*3






*1:それにアクチュアルな緊張感を感じられないほど、僕は(当事者の多くは)絶望してしまっている感がある。 しかし、「反抗を放棄した人に対する攻撃には、歯止めがきかない」玄田有史)。

*2:「異性」と言ってしまうと同性愛を排除してしまうと思ったので、こんなふうに言ってみた。

*3:何を語っても、このレベルでしか受け取ってもらえない徒労感…。

「らしくしろ」、相互評価、そして

  • 「女は女らしくしろ」、「若者は若者らしくしろ」とか言ってる人と、「ひきこもりはけしからん」とか言ってる人とは、かなりの程度重なってるんじゃないか? → やはり≪健康≫という、あの我慢ならない思想か。
    • 「健康であれ」という命令には恐ろしく抑圧的なものがある。 だから「健康」という言葉は使いたくないのだが、(「病気」というのとはちがう、)どう考えても「おかしい」人はいる。 → 人間を、既存のカテゴライズ(生まれ・学歴・社会的地位など)とは別の目で、つねに見分ける必要がある。 「すべての人がすばらしい」わけではない。
    • 当然ながら、どの個人においても「評価すべき瞬間」と「そうではない瞬間」がある。 だが確率的に「評価すべき瞬間」の多い人と少ない人とがいて…。 → やはり「レッテル」によってではなく、その都度の「言動」によって批判すべきだし、変化可能性への希望は残したい。 しかし、「確率の低い人」については、毎回の発言に誠意を持って耳を傾けようとするこちらの開放的努力は、ほぼ確実に裏切られる。 「心を開いて相手の話を聞く」には、ものすごいエネルギーが要るし、それはこちらがズタズタに傷つくかもしれない大変危険な行為。 可処分エネルギーも、心のキャパシティーも有限なのだから、「心を開くべき相手」はピンポイントで限定していかざるを得ない。
    • 「毎回の発言」をその都度問題にすべき、というよりは、その毎回の発言を規定している「思想の構造」みたいなものが問題ではないか。 → 僕自身についても自己検証すべきだろう。


  • ある種の人から見たら、僕などは「病人」、あるいは「オカシイ」のだろう。 倫理的・思想的に「立場が違う」と感じた相手を差別する不毛さ。 → このヘゲモニー争いは、永遠に終わらないんでしょう…。 そして引きこもっている者(あるいは経験者)は、つねに分が悪い。
    • (繰り返しになるが、)実のところ、こちらが努力して対話的緊張関係を維持するに値するほどの生産性や開放的姿勢を保つ個人は、ほとんどいない。 多勢に無勢、開放的姿勢を保とうとする個人のほうが受傷的だから、「開放的な場」は、悪辣な態度によって容易に破綻する(単純な話、良心的な人間よりは、悪意ある人間のほうが饒舌だ)。 → むしろ、信頼できる人間だけの閉鎖的サークルのほうが生産的なのか? 生産的内部空間と、開放的新陳代謝のバランスの、難しさ…。
    • 僕は僕で、自信を持って何かを支持し続けねばならないのだが、「これはいい!」と言い得る人・作品・活動に出会えず、かつ孤立し続けると、善悪の判断自体が見えなくなってゆく。 極端な孤立は、人の判断を狂わせる。 → 対話的関係は、積極的な相互評価の契機でもあるはず。
    • 各人が、「評価に値するものを創り出す」という孤独な作業に没頭すべき。 ただし、「孤立」は避けるべきで、そのためには、お互いに「評価する」ということに臆病になるべきではないのだろう。 「評価しない」のなら、「それ以上のものを創ってみせる」こと。 代替案(作品・活動)を出せない、何物にも取り組もうとしない人間の愚痴や中傷合戦ばかりでは、何も始まらない…。
    • そう、その「いいものを創る」没頭の、なんと難しいこと…。



「生産的なたたかい」だけでは、すまないわけか…。


というか、本当に取り組むべき課題設定 がいちばん難しいよ。 その設定の必然性に深く納得できれば、きっと夢中になれるんだろうけども…。