感謝

誕生日だった10日のコメント欄がこんなにも豊作だったのは、うれしい限りです。 ありがとうございます。 いつものことですが、提起いただいた諸問題については汲み尽せないものの、今後の糧とさせていただきます。


ここで論点を再度取り上げなおすことはしませんが、コメント欄自身が一種のコラボレーション作品になっていると思うので、ぜひコメント欄自身をご覧いただければと思います。







「コミュニケーションと承認」 ―― 性愛と経済

8日コメント欄には、chiki(id:seijotcp)さんより、きわめて刺激的かつ真摯な書き込みをいただきました。 そこで提示いただいたコミュニケーション≪しかない≫、そして「承認(評価)のシステム」という思想について、今ずっと考えています。

 「安易な受容と安易な排除は裏表」*1…そう思います。 凡庸な言い方ですが、一般的に「安易」でない「困難」なコミュニケーションを排除してしまうことがしばしばある*2ように思います。 それは必要悪であるとは思いますが、それに抗する<唯一のコミュニケーション(=訓練)の場>として、批評や文学などを捉えることも可能ではないかと思います(chiki の親しい友人から影響を受けた発想であることを明記させてください)。



コミュニケーション」と「承認」というところから、僕はやはり 性愛系経済系 の論点を思い出しました。


恋愛やセックスが「承認」であることは当ブログでも何度か触れてきました(こちらこちら)が、それを「コミュニケーション」の問題であると整理すればいいわけか。 というか、「性愛はコミュニケーションだが、若い男性の多くはコミュニケーションができない、つまり恋愛ができない」 という話は、それこそ宮台真司氏がしていたっけ。


新しく思い出したのは、地域通貨LETS(レッツ、Local Exchange Trading System)の紹介者かつ推進者である西部忠氏の論文にあった、「貨幣はメディアだ」という指摘。 → そのコミュニケーション・メディア」としての側面が強調されたのが LETS というシステムだ、というお話だったと思う*3


性愛についても経済についても、いきなり≪承認≫を目指すんじゃなくて、≪コミュニケーション≫の訓練を ―― chiki さんによると、コミュニケーション自体が訓練だ ―― 目指せばいいわけか…。
そこに「PICSY」のような、「新しい貨幣」を導入できればいいのだが…。







*1:chiki さんの書き込みから僕が連想したことです。

*2:強調は上山

*3:いま手元に論文現物が見当たらないが、90年代後半の『批評空間』に掲載されたものだったと思う。 僕が「LETS」なるものを知ったのはこれが最初。

「唯一の場としてのコミュニケーション」 (chiki さん)

コミュニケーションには、≪自己目的≫ ≪探求≫ ≪訓練≫ という三側面がある、というふうに思ったのですが、いかがでしょうか。
僕が10代で夢中になったバフチンは「永遠の対話」ということを語っていたのですが、ビビッドな論点を見出せず、忘れていた。 再蘇生されたかな…。







情報生産 ―― 勉強と先鋭化の方向性が…

鈴木健さんのエントリーで知った論集 『進化経済学のフロンティア』ISBN:4535553211 が届いた。 執筆者を見て個人的に驚いたりしたのだが、この本、これから長く付き合っていくのだろうか…(いまいち乗り気になり切れずにいる)。


あらためて、自分の勉強の方向性について悩む。 「不登校ニート・ひきこもり」という連続性のある問題系について――僕は「ひきこもり」を中心に考えることになるが――、実効性のある、かつ「相手にされる」議論を作ろうとしたときに、「勉強しなければならない」のは分かるのだが、どこに手をつけたらいいか。
既存の文脈では「精神医学」「精神分析」「臨床心理」、それに最近では「社会学」ということになるようだが、僕自身は「労働経済学」などが深く関わるような気がしている。 それに「コミュニケーション」ということなら、文学や思想などの人文系の議論も要りそうだ。 「言葉で未開拓の現実に切り込んでいく」という仕事には、作家的な側面もあるかもしれない。


数学などに典型的だが、徹底的に先鋭化された最先端の議論は、「世界で数人しか理解できない」状態になったりする(それほど「コミュニケーション」が洗練されてゆく)。 一方、それが「現場」に応用されたり、一般向けに啓蒙的に語られたりするときには、「ミドルマン」的な存在が必要になる。 → 僕の議論はどこに向けて彫琢・先鋭化していけばいいのか…。
たった一つの学問分野に習熟するにも、読まねばならない文献の量は膨大になる。 本を読むことが好きとは言えない*1僕が取り組むとなると、よっぽど強烈なモチベーションが要るが、動機設定をできるほどには、ビジョンがうまく見えていない。 おそらく日本中に、(この「ひきこもり」というテーマでは)ビジョンが見えている人など、いない。


じつは、社会学・法学・経済学について、大学1年生レベルの授業が受けたくてしょうがない。 いや、というか、それ以外にも、いろんな学問分野の「入門」レベルの授業を受けたくてしょうがないよ。 「本を読む」前段階としての、「人の話を聞く」段階。 「コミュニケーション」という前に、「話を聞かせて!」というような。
ドアーズの曲じゃないけど、「僕の欲望に火をつけて!」というような…。







*1:そのくせ、町の中では「本屋と図書館」をまず最初に探す…。 僕は神戸に住んでいるが、三ノ宮などの繁華街に出ても本屋以外にはほとんどまったく行かない。 歩くルートまで決まっている。 生活の中に不確定要因が入り込むのを恐れているのかもしれない。 それにしても、「言葉が好きなのに本が読めない」 とは、どうしたことか…。 ≪他者≫とうまく付き合えない、ということか。

なにも言えない

自分で稼げない人は、自分で稼いでいる人に比べて、あまりに立場が弱い。
とりわけ家族内において。*1
自分で自分を重荷に感じている。
はやく、「しっかり稼ぐ」状態を作り出したい。







*1:僕自身は、家族に感謝している。 社会的にも、家族内においても、「ひきこもる権利を認める必要がある」のはわかる(その必要はある)。 けど…。

「100%安全とは言えないな…」

SMAP の5人が総出演する保険会社の新作CM を、関西ローカルの番組が紹介していた。
「外出したら何が起こるかわからない」と家の中でおびえる稲垣吾郎を、電話で他のメンバーが説得する。 ついに説得できず、「やはり外は危ないよな」と稲垣氏がホッとしたところで、空から巨大な UFO が落ちてきて、家を直撃……つまり「家にいても危ないよ」というもの。
保険会社の CM が社会生活のリスクを描くのは当然なんだが、ひきこもるしかなくなる人(というか僕)の強迫観念の一端をコミカルに描かれた気がして、苦笑。


当ブログで何度か取り上げたが、この世に「安全地帯」はない。 つねにトラブルと死の射程圏内にある。 死ぬほど厳重な核シェルターに閉じこもっても、心臓発作で死ぬかもしれない*1







*1:ここで笑えるようになれればいいわけか。