「長所を伸ばし合う」という贅沢

「誠意と耐性のジレンマ」について考えているうちに暗澹たる気持ちになっていたのだが、おそらく1年以上ぶりに遠方の友人に電話して、長時間話し、ずいぶん救われた*1
彼女は僕のこれまでの仕事のいい面を指摘してくれたのだが、どれほど心の整理に役立ったことか…。 罵倒ばかりされ、孤立していると、過度に防衛的になって、反省的にわが身を振り返ることすらできなくなる。
それにしても人はネット上で、どうしてこれほど「人を褒める」ことをしないのだろう。 「長所を伸ばし合う」のではなく、難癖をつけて足の引っ張り合いばかりしている。


逆に言えば、「いい友達がいる」というのは、なんと贅沢なことなんだろう…。







*1:以下、彼女との会話をブログにアップすることには了解を得ています。

距離感

上記の友人*1によると、「恋人と友人のちがい」の一つは、「悩みの共有度合い」なんだそうだ。
友達が悩んでいても、「大変だねぇ…まぁ頑張ろうよ」で済むが、恋人だと、ヘタをすると自分も同じレベルで傷つく。 相手の抱えている問題は、そのまま「自分の悩み」なのだ。 これは斬新な視点…。
→ 「そこまで深く悩みを共有してくれる恋人がほしい」と思うのか、それとも「お互いに独立して自由に振る舞える友達関係がいい」と思うのか。


恋人関係になると、多くの場合、「自分と結ばれる」ことを第一に相手に要求するらしい。 しかし「友達」だと、「自分に振り向いてくれるかどうか」という問題設定自体がなくて、とにかく純粋に相手のことを心配していたりする。


いい友人に恵まれているせいもあるだろうけど、「恋愛をうらやましいと思う」気持ちが、薄れてきているかも…。 いや、それとも、「本当は望んでいるけど、望んでも得られないから、望んでいないことにする」でしかないだろうか?…
「恋人も友人もいなくても、元気に生きていける」ような意識状態を作れたら、それがいちばん幸せなんでしょうかね…。


人につけられた傷は、人によってこそ最も効果的に癒し得る。
それだけは、確かなように思うのだけれど…。







*1:過去に恋愛でものすごく苦しみ、「もう恋愛は要らない」と思っているそうです。

ひきこもりやニートも、「減少に転じる」か。

ただし、まだ調査開始時の1.7倍。


次の記事と関係あるだろうか。

通信制フリースクールなど、選択肢が多様化し、強迫的な登校刺激が減ることによって、かえって通いやすくなりつつある、ということか。
あるいは、不況の長期化によって子供への脅迫材料が増えた(「学校に行かないと、死ぬしかなくなるぞ」)面もあるのだろうか。


★ 「選択肢の多様化により、安心感を高めることで社会参加を促す」という方向を目指すのか、それとも「不安材料を突きつけ、恐怖と脅迫によって参加を促す」という方向を目指すのか。 ―― ここに思想の分岐点があるように思うのですが、いかがですか。
→ ここでも、「自発性(能動性)」「強制(受動性)」が、議論の重要なファクターになる。


「社会参加」自体に価値があるわけではない。 それ自体が強制されるべきではない。 だが、家が資産家でもない限り、「社会参加できない」は、イコール「ホームレス or 死」なのだ。







「恐怖に取り組む」

『リリカの仮綴じ〆』より。

その女性が昔話をするなかに、「差別する感情の底にあるのは恐怖心に他ならない」という言葉が出てきて、はっとする。
「強い」というのは、自身の恐怖心をどんなふうに自覚して扱うかということに関係してるんじゃないだろうか。



弱者は、なぜか強者ではなく、自分の隣りにいる(自分と似た)弱者を攻撃する。 ひきこもり同士の、醜い差別合戦。 じつは自分が何に怯えているかにさえ、気付いていない。 他罰的になることしかできない人間の、絶望的なまでの弱さ…。


最近気付いたのだが、僕が最高にストレスを解消できる方法は、「問題を共有できる人と話す」こと。 「1を話せば10が通じる」ような人と話せたとき、どれほど救われるか。 「意見を共有する」必要は、必ずしもない。 「問題のツボ」さえ共有できればいい。 要するに、「ミーティング」がしたいのだ。


「恐怖そのものに取り組む」ようにして、建設的な議論ができないだろうか。