和樹と環のひきこもり社会論(5)

続いて(5)です。



(5)【欲望することは義務か?】 上山和樹

 斎藤さんから、「自由」というテーマに関し、「欲望を行為に変換する可能性の幅のこと」という説明と、カフカの寓話掟の門を出していただきました。それで何よりも思い出したのは、芥川龍之介の小説「河童」です。この作品で河童の胎児は、母親のおなかの中から生まれようとするときに、「生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と大声で訊かれ、「生まれたくない」と答えると、産み落とされずにそのまま消えることができるのです。私はこれを読んで、ため息をついてしまった。
 カフカの「掟の門」で門に入ろうとする男は、「なぜ門に入ろうとするのか」という以前に、そもそもなぜその門の前にやってきているのか、理由がわかりません。「とにかくやってきた」ということになっている。私たちは実は、全員がこれと同じ状況にいるのではないでしょうか。生まれたいと思って生まれてきた人間は一人もいない。気が付いたら生まれ落ちていて、いつの間にかそれを引き受け、何かを望んだり「生き延びたい」と思ったりしている。欲望生活が始まることをどこかの時点で欲望してから欲望が始まったのではなく、いわば強制的に「欲望する能力」が与えられ、そうやって産み落とされた以上は、「この世を欲望すること」(門の向こうに行きたがること)が当然の義務になっている。
 「欲望することが、義務になっている」…? でもきっと、こんな言い方自体がすでに欺瞞なのだと思います。本当に私が何も欲望していなくて、「もう二度と欲望しないこと」のみを欲望しているなら、とるべき行動は一つのはず。「生まれてこなければよかった」「生きてるのが嫌だ!」とつぶやきながら、それでも私は生き延びる努力をし、周囲に迷惑をかけ、この原稿を書いている。つまり、私はまだ何かを欲望している。そしてでも、こんなすべてにとても疲れている。
 考えなければならないのは、なんだかそのへんのことだと思うのです。




芥川龍之介の小説「河童」の当該箇所より

 河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。 けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。 バッグ*1もやはり膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。 それからテエブルの上にあった消毒用の水薬でうがいをしました。 すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。
 「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」
 バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。 が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太いガラスの管を突きこみ、何か液体を注射しました。 すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。 同時にまた今まで大きかった腹は水素ガスを抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。

*1:ある男性河童の名前