和樹と環のひきこもり社会論(3)

前回の(1)に続いて、(3)を公開します。
往復書簡ですので(2)は斎藤環さんの番ですが、ここでは公開できません。



(3) 【自殺的な自由】 上山和樹

 「どうすれば本人が自由になれるかに照準した発想が必要だ」という斎藤さんのご提案にまずは全面的に同意しつつ、そこには何重にもエクスキューズが必要だと思います。というのも、そこで考えられている「自由」が、私たちがすでに知っている、あるいはそれと思い描いている「自由」と、違うものだと感じるからです。
 斎藤さんは前便でひきこもりを、「世間につながる橋をことごとく焼きながら撤退を続けて」と描かれていますが、ひきこもりという状態は、「自由な選択の結果」なのか、それとも「不自由の末路」なのか。私たちは今回の往復書簡で、「精神でも身体でもなく、自由そのものに障害をもつ」という話をしているわけですが、どうも最初から、「自由」という概念を不適切に使っている違和感をぬぐえません。
 ひきこもりにきわめて特徴的だと思うのは、「何かをしようとすればするほど、それができなくなってゆく」という事情です。つまり自由に振る舞おうとすればするほど、それが自殺的な意思として働いてしまう。たとえば2ヶ月以上もお風呂に入らない人は、「清潔観念のないルーズな人」なのではなく、あまりに強迫的に「清潔にしなければ」と思っているので、ひとたびお風呂に入ってしまえば何時間も洗うのをやめられず、それが苦しすぎるからお風呂に入れない。
 同様にひきこもっている人は、「社会適応しなければ」と思えば思うほど、それが自分への凶器となり、かえって動けなくなってしまう。――こんな実情を、私たちの「自由」という観念は、想定していたでしょうか。私たちの社会は、「本人の自由意志が結果を選択する」、「そこには本人の責任が発生する」と、そういう前提で成り立っているのではないか。そしてそういう分かりやすい前提がことごとく、「ひきこもり」という限界状態のディテールを裏切り、だからこそ、既存社会の言葉遣いでひきこもりを描こうとしても、何かおかしな話になるのではないか。