ひきうけ直すことの破綻

ラカン精神病〈下〉』p.159-160 より(以下、強調箇所は全て引用者による)

 前精神病者に分析的に接近したとすれば、どういうことになるかを私達は知っています。 彼らは精神病者となります。 つまり見事な精神病が (・・・・) 少々熱心な分析の初期のセッションから発症するということです。 たとえば、この時から急にその分析家が、患者に一日中何をすべきか、何をすべきでないかを言ってくる声の発信者となります。
 他を捜すまでもなく、まさに私たちの経験だけをとってみても、このことによって私達は、精神病への入り口にある動因の核心に触れているのではないでしょうか。 つまり人間に課せられるものの中で最も困難なこと、彼の世界内存在が、それほどしばしば立ち向かうことではないこと、つまり「パロールを捉える(prendre la parole)」ということです。 それは彼自身のパロールということです。 それは隣人のパロールに「はい、はい」というのとは全く違うことです。 それは必ずしも言葉で表現されるわけではありません。 種々の仕方で現れるこの契機を見抜く術を心得ていれば、精神病がまさにこの時点で発症することは臨床的にも見ることができます。
 その時まで蚕のように繭の中で生きてきた患者にとって、時に実にささいなパロールを捉える(prendre la parole)という仕事が引き金となるのです。 (・・・・) 真のパロールへと接近する際の主体の崩壊が、危機的な現象、つまり精神病の始まりの段階へと主体が入ったり、すべりこんだりすることを画しているという事実を認めるならば、 (以下略)



これに対して、「『精神病』についてのあれこれ――パロールを捉える?」(lacanianさん)より:

 隣人の語り(パロール)に同調するのではなく,自分自身の語りをなすということが,分析においては求められる.たしかに,「自分自身の語りをなす」ということは,よくよく考えれば考えるほど希少なことであり,「人間に課せられるもののなかで最も困難なこと」「世界内存在がそれほどしばしば立ち向かうことではないこと」という表現もあながちオーバーな表現ではあるまい.
 このように理解すれば,上記の引用文中で原文のままにしておいた「prendre la parole」の意味は明瞭であろう.すなわちそれは「発言すること」である.つまり,人の言葉を借りるのではなく,自分自身の言葉で,主体定立的に発言することが,精神病構造を持っている人にとっては発病の契機となりうるのである.
 ところで,「prendre la parole」は邦訳では「パロールを捉える」と訳されており,これでは何のことか分からない.すでに形成されている既存の語りを「捉える」ことが問題なのではなく,何も依拠するもののないところから ex nihilo に自らの語りを紡ぎ出す*1という含意が「prendre la parole」にはある.「パロールを捉える」ではむしろ反対の意味にすらとられかねない.

 その状況が招く「自分自身の言葉で語ることの突然の要請」が問題なのである.こう言って良ければ,それは「語りの出立」ということになろう.自分自身の言葉で,誰の助けも借りずに発言すること.このような状況では,人は父の機能に対する問いに直面させられることになる.精神病者の発病契機となる事態は,「自分自身の言葉で語ることが不成功に陥る」こととして一括できる.例えば,会社の朝礼で他の社員の前に立たされ演説をさせられたある女性は,その翌日から被害的内容を持つ幻聴と実体的意識性の出現をみた.そして,当時を回想して「(朝礼のときは)うまく喋ることができなかった」と語る.このように,前精神病者は,自分自身の言葉で発言しようとした瞬間,語りが「うまくいかない」という事態に陥る.



これは精神病をめぐる議論だが、
「ひきこもるしか出来ない」という主体の硬直も、この《危機》に直面しての破綻/防衛と考えると、この危機そのものを取り上げ直す必要が生じる。


私が参照している何人かの論者は、いきなり「世界の秩序」を語るのではなく、語ろうとする主体そのものの危機に照準している*2。 いっぽう《科学》に言説事業を固定すれば、「科学をやる自分」のプロセスはもはや問われなくなる。 それは「物質の危機」は語るかもしれないが、「主体の危機」は語らない。


たとえば宇野邦一は、『ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ)』冒頭でドゥルーズの↓を引用している。

 過激な肉体の運動には危険がつきものだということは誰もが認めるでしょうが、思考もまた、息がつまるほど過激な運動であることに変わりはないのです。思考がはじまると、生と死が、そして理性と狂気がせめぎあう線との対決が不可避となり、この線が思考する者を引きずっていくのです。 (『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p.209)



さまざまな思想家や臨床家の立場のちがいを、この《危機》をめぐって整理する必要があるし、少なくとも焦点はここにある。
物質の破綻*3とは別の《主体の危機》が、それにふさわしい方法で扱われているか。



*1:creatio ex nihilo」で「無からの創造」

*2:再帰性や「メタとオブジェクトの乖離」を主題化しなければならないのも、このためだ。

*3:身体疾患は、物質過程の破綻として語れる。