斎藤の議論は、いわば「成功した欲望のフレーム」から為されている。

斎藤の場合、「精神科医がオタク趣味を持っている」というより、「オタク的な欲望フレームで精神病理学をやっている」というほうが当たっている。
彼の欲望フレームがひきこもりを対象として見出し、そこで描写している。 ひきこもりに関する表象がさまざまな理論装置を使って分析されるが、その描出結果は、ひきこもっている人の「自意識」にはなっても、着手自体のヒントにはならない。プロセスとして経験される主体の危機は、そのまま放置される(偶然性にゆだねられたまま)。
欲望フレームを樹立できていない人が現時点において何をすればいいのか、自分の作業場をどう構成すればいいのかについては、「成功した欲望とはこのようなものである」という完成形を示す以上のことができていない。
「欲望に関して譲歩するな」という方針が口にされるが(参照)、譲歩しない欲望が立ち上がるプロセスがどうやって着手の筋道を見出せばよいのかについては、「完成形の提示」と、「偶然の出会いに向けたせき立て」以上のことをしていない。既存の転移フレームへの直接的順応を勧めるだけで、すでに生きてしまっているフレームへの分析や組み直しをしないため、つねに同じ苦しみのフレームが回帰してくる*1。 元気になっても、再帰性や実体化へ向かう考え方の筋道(くせ)は、原理的に別の作業ヒントを得たのではなく、たまたま別の道に「ハマれた」にすぎない。 これでは、「思い出してしまったら」、また同じヤバさが始まる。



*1:香山リカの「精神医療にゲームを活用」にも同じことが言える。