今日は、ひきこもり事情に詳しい二人の日本人との面会のあと*1、
フランスの精神病院で30年勤務しておられる仏人女性とお話できた。
私は日本語とつたない英語でしゃべり、彼女は英語とフランス語で話したのを同席したかたに通訳いただいたのだが、この複数言語混淆の会話で楽になった*2。
日本人にまったく通じない話が、初めて会った世代の違うフランス人に、驚くほど通じる。
この状況に感動しつつ、ショックを受けた。
こう書きながら、今日の体験をうまく咀嚼できていない。
饒舌に語っても台無しな気がする。
今日の女性は、フランスの「普通のおばちゃん」だ*3。 ふつうのおばちゃん*4が、「institution(制度)」概念の哲学的含蓄について会話する。 彼女には、過剰に思いつめた神経症的な印象がない。 本当に、いい意味で「ふつうのおばちゃん」なのだ、でもその日常的な存在感がこっちを勇気づける。
彼女の即物的存在感が《メディア》になった。 それは臨床活動になっている*5。
日本の文脈では、思想と臨床の乖離が当たり前になっている。 これじゃどうしようもない。
【追記】:
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- 帰路では、地下街の風景まで違って見えた。 電車内で本を読むと、あれほどガチガチに見えていた書物の文字が、べつの風通しで読み進めた。 日本の精神科医やカウンセラーに何万円払っても、こういう効果は期待できない。
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- いくら劇的でも、この話を共有する難しさは無視できない。 また今日の会話が日常化すれば、それも神経症に閉じる。 フランス語が良いのではなくて、「言葉が流暢すぎること」がまずい。 そのコミュニケーションに内部化されると、硬直する。