「社会全体を、改善された学校や病院のように」
イヴァン・イリイチの「脱学校化・脱病院化」という主張が知られている: 「社会が、学校や病院のようにヒエラルキックに管理された場所になってはいけない」。 しかし、むしろ逆ではないか。
学校や病院であれば理不尽に管理されてよいのではなく、学校や病院こそが、環境改善されなければ。――そして、社会全体が「環境改善された学校や病院」のようであるべきでは?
いつになっても学びの機会があり、どこに行ってもお互いへの臨床的配慮があるというのは、むしろ必要に思える。というより、私たちは常にそういう配慮の必要に晒されている。
「脱学校化・脱病院化」を叫ぶ人は、それだけで政治的アリバイを調達できた気になって、自分の足元を分析しない。 叫んでいるご自分は、すでに学校的・病院的権力を一定の形で生きているくせに。
【参照】: 樋澤吉彦*1「心神喪失者等医療観察法における強制的処遇とソーシャルワーク」(PDF)より*2:
大塚*3は、観察法のみならずこれまでの精神障害者対策じたいが実質上、社会防衛的要素を持つものであるにも関わらず、なぜか医療機関(精神科病院)の中までは及ばないという奇妙なねじれを指摘する。 「病院という安全であるはずの場で犯罪行為が起きてしまった時の対処のされ方にも多々疑問がある…(中略)…院内では診れないと通報し、鑑定ルートやその前に刑事的介入を求めても取り扱われないこともままある。一度医療機関が担うと、何が起きても医療が対応責任を押しつけられている感が強い。 社会防衛という言葉を使うなら、病院も社会の一部であるといいたい」(大塚)。 「精神病院内でも事件が起きうるが、大概警察はまともに引き受けてくれず、また措置ルートにも乗らない…(中略)…まるで、精神病院は守らなくてもよい「社会外社会」のような扱いを受けている」(大塚)。
学校や家庭にも同じことが言える。 教師や家族であれば放置されていいわけではない。
「社会は患者さんを受け入れなければならない」みたいなスローガンではなく、目の前の関係性を直接あつかう方法論を持たなければ。
パブリックには歓待を口にする知識人が、身近な関係性では人を見下しているようではどうにもならない。 扶養や臨床を人に押し付けて、自分だけメタ正義を口にされても困る。 むしろ、身近な関係性を無視するそのようなメンタリティを広めていることが、臨床的に有害だ。