《動かす》こと

ueyamakzk2009-04-23

「組立」に取り組まれてきた画家・永瀬恭一氏が、先日終了した展覧会のフリーペーパーに掲載いただいた拙文(参照)について、説明をくださっています

 私の力不足もあって、美術の展覧会のフリーペーパーに「ひきこもり」の話が掲載されていることが腑に落ちない人は一定数いただろう。しかし、何度も繰り返すが、上山さんの問題意識は、何かしら自分の活動や生活の中に「動かない」ものを抱えているひとにとっては、等しく参照可能な筈なのだ。

永瀬さんからいただいた原稿依頼は、私がこのブログに

止まっているものを《動かす》ことが、芸術と臨床の仕事ではないのか

と書いた、まさにその点についてだったのでした。
しかし、今の私にはそれを直接論じる力がないと感じた。 そこで、まずは「ひきこもり」そのものの事情を説明し、そこで必要となる臨床上の趣旨が、今回の展覧会と内在的にかかわるのではないか、と論じたのでした。 ですので、ひきこもり論が突出して見えるのは、私の力不足です。


今後少しずつでも、この点について言葉をつくり、取り組みを続けられたらと思っています。
むしろ私としては、ひきこもり関係者にほとんど通じない議論が、美術実作者の方に通じたことに、強い感銘を受けました。 細かい点で齟齬はあるのでしょうけれど、これだけ内在的な反応を頂けたことに、影響を受けています。

 生活が、仕事が、(アートであれエンタテイメントであれ)「作品」の制作が、人間関係が、知的思考が、「動かない」時、それを「動かす」。このような問題を何一つ持っていない人など存在しないのではないか。(永瀬恭一、同上

社会参加の臨床を考えるとは、まさにこうしたことを考えることだと思います。
個人への動機づけ、景気浮揚、抑圧からの解放など、《動かす》とは、私たちの生きているこの現実を活性化させる話で、それは斎藤環さんが引きこもり支援を「元気にすること」と位置づけられているのと、趣旨としては同じだと思います*1
もんだいは、人は動かそうと思ったら動くものではないし、単に弛緩すればいいのでもない。 動かそうとすることは、何らかの介入でもあり得るから、手続きなしに恣意的にやってしまうと、お互いの自由度を奪うことにもなる。
じつは動かしたり変えたりするためには、お互いの制作過程に照準し、内在的な分節の仕事が要るのではないか――といったあたりのことを、論じたのでした。


そもそも動かそうとする人(支援者や実作者)*2は、自分がその「動かそうとする」姿勢で硬直していたりする。 あるいは、何をもって「動いている」ことにするかは、ひどく先鋭的に立場を分けるのではないでしょうか。



*1:今の私は、面白いゲームを作り出したり、画期的な物理学の発見をするのも、《動かす》という視点で見るようになっています。

*2:ひきこもる人は、「なんとかしなければ」と意識すればするほど、硬直したりする。その意味で、「自分を動かそうとする」という趣旨が、うまく機能しない悩ましさでもあります。