『概念分析の社会学』 合評会

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

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「登録不要、参加費不要、どなたでもご参加いただけます」とのことで、参加させていただいた。
合評会全体をバランスよくまとめる作業は私には無理だし期待もされていないと思うので*1、私の興味を持ったポイントを少しだけメモ。 【※発言記録については、発言者からの承諾を取っていませんし、あとで書き換える可能性があります。本エントリーは、いち聴講者による個人的なメモです。ご注意ください。】


冒頭で酒井泰斗(id:contractio)氏*2から、「エスノメソドロジーは何であるか」という事業説明があった。それは「研究」であり「社会学」と称されているが、どういう方法で何をやろうとしているかが分かりにくく、むしろその分かりにくさの説明が事業説明になるところがある。

 記述 ⇒ わかってくる ⇒ 方法論の変更を要求してくる

酒井氏のこの言い方は*3、臨床という趣旨をもつ実践家にこそ考えてほしい。


(私はひとまず引きこもりに照準してしか語れないが、)ひきこもりがどういう事情にあるか、内面や状況についての記述が進む、そこで見えてきたことが、最初に前提していたはずの態度や方法を内在的に組み替えることをどうしても要請してくる――そういうことに鈍感な人には、ひきこもりを内在的に記述することはできないし、するべきでもない。 一方的に他人事として「記述」して終わらせたり、過剰に同一化して人生論で終わらせたりするのはいずれも間違っている。 記述することが内在的に方法の変更まで強制してくる*4、そういう注意とともに語らなければ、問題をこじらせるような苦痛のメカニズムがある。 それゆえ「記述」は、内在的に臨床活動にならざるを得ない。 【「現場に成立している秩序」は、個人の視点からは「うまく参加できていることの事情」だ。】*5


エスノメソドロジーという事業の説明*6のなかで、「方法を実践の側から取り出してくる」という言葉があった。ここで私が要求するのは、単に上から「記述する」*7ことではなく、かといって単に「へりくだる」のでもなく、記述することが同時に苦痛緩和でもあるような、基礎研究が同時に介入の方法論でもあるような分析だ。 かかわっている自分を忘れない、慎重な関与の手続きとしての記述。――そういう問題意識を許してくれる言説事業をどうしても見つけられずに今まで来て、「エスノメソドロジーがひょっとしてそういうものでないかどうか」と考えていた*8

 エスノメソドロジー研究は、対象への規範的なコミットメントよりも前に、まずは当の対象において用いられている規範とその運用方法の記述を目指す。しかし、それは単に、「対象への規範的なコミットメントを避ける」ことを意味するわけではないのである。 (『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』「おわりに」p.265、酒井泰斗氏)



会場には臨床哲学がご専門の中岡成文氏がおられて、看護現場での「清拭(せいしき)」に触れつつ、研究者が相手を「対象」と呼ぶことの「失礼さ」に言及があった。 後半の中村和生氏からは「科学という事業」に関するお話があり*9、その後の質問時間に、私から次のように会場質問した(大意)。

 ひきこもり経験者の集まる共同体では、思想の本を読んでいるだけで「頭でっかち」あるいは「寝返った」みたいに言われることがあります。 支援現場でアカデミックな理解を語ろうとすると、それだけでコミュニティから逸脱する危険がある*10。 私自身をふくめ、多くの人がアカデミシャンに怒りや不信感を抱いているのですが、そこで常にネックになるのが、《研究》という言葉です。 「この話は、研究者には言わないでくださいね」 「俺たちを昆虫みたいに研究して、“業績” を作るんだろう」云々…。

 きょう前半のほうで、酒井さんからエスノメソドロジーという事業について説明がありました。既存の哲学や社会学とどう違うのか、方法上にどういう困難があるかを、わざわざ位置づけておられた。また後半の中村さんは、語られる対象の分類について説明されています(自然類と人工類)。 そこで提案したいのですが、対象や概念を分類するだけでなく、取り組み事業そのものを分類する必要はありませんか(《対象の類》に対して、いわば《事業の類》*11

 さきほど中岡先生から、「対象という言葉を使うのは患者さんに失礼だ」というお話がありましたが、「記述・分析」というメタな作業と、その記述対象をスタティックに分けるというのは、《研究》という事業内の秩序にあたります。 そこで、「医師や患者がやっているのは《臨床=オブジェクト》だが、学者は《研究=メタ》だ、というのではなく、むしろ学者の研究事業そのものを臨床活動と位置づけることはできないでしょうか*12。 たとえばウィトゲンシュタインは哲学を「治療」として語っていますが*13、私が先生方のお仕事を参照するのは、自分の臨床上の必要でもあります。 インテリごっこをするためではない。

 私は数年前から酒井さんのブログを読ませていただいているのですが、それは酒井さんがアカデミズムへの制度的所属を持っておられないことが大きい。 「単に制度的に事業順応していない」というのは、外部から見ると、大きなアクセスチャンスになるわけです*14
 アカデミック・サークルに向けては、「これは研究であり社会学だ」というアナウンスは必要だと思いますが(行政上の説得など)、一般に向けては、「これは医師やカウンセラーとは別の、独自の趣旨をもった臨床実践だ」とアナウンスすることに、意味はありませんか。 それだと、先生方の業績にもアクセスしやすくなります。



これに対し、複数の先生方から、大意つぎのようなお返事をいただいた*15

    • 学問への参照は自分がどうするかなので、コミュニティ内部でそれをどう話題にするかは自分で容易に解決できる。わざわざ哲学者の名前やタームを出す必要はない。
    • 「自分のやっていることを観られる、再記述される」というのは基本的に不快であり、トラブルのもとになりがち。そこは心理系の研究者は分かっていて、実践的なスキルを持っている。
        • ⇒私(上山)はやや疑問。 「スキルで解決する」というより、関係性の作り方について、もっと原理的に考えるべきことでは。 たとえばそれは、「社会学登場以後の歴史をつくること」ではないか(参照)。
    • エスノメソドロジーには、「われわれは素人である」という前提がある。 「領域から教わる、その教えてもらった領域に分かる言葉で語り直す」。
    • 「方法は、対象のなかにある」。 不適切な記述なら、その領域から単に無視されるだろう。
        • 【追記】: 「事業の類」 「学者の事業そのものを、臨床活動と理解することはできないか」というのは、いちばん聞いてみたかったところなのだが、どなたからも言及はなかった。 ▼メタとオブジェクトの関係を主題化することで、様々な事業が分類できるし、自他の苦痛緩和のためにもその必要があるのではないか、というのが私の質問趣旨だった。 この点は、私じしんが勉強を進める中で考えたい。



このとき、「秩序トピックの再特定化」というキーフレーズをいただいた。 帰宅して『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』を探すと、次のような説明があった(強調は引用者)

 エスノメソドロジーは、秩序現象を生みだすように、場面を組織して可視性を与えている方法を特定しようとしています。 (略) 秩序問題の問いのかたちが、「場面の可視性がどのように組織され、使われているのか」といった経験的なものに変わることで、その研究対象を日常の言語に埋め込まれている論理によって組織され、秩序だっている「現象」、すなわち「秩序現象」としてみていくことになります。そして振舞いの秩序を、それが埋め込まれている場面と一緒に、ひとかたまりのものとして特定化していく(その詳細をつまびらかにする)ということが目指されたのです。こういったエスノメソドロジーの手順が「再・特定化」(respecification)と呼ばれます。 (p.64-5)



酒井泰斗氏からは、本書出版をめぐる事情説明があったのだが、それが《事業》の性質を理解するうえで重要に思われた。(以下はその発言からの引用、大意):

 最初は出版社のかたから、「ルーマンについて本を出しませんか」とお誘いを受けたが、興味がないと断わった。しかし、エスノメソドロジーなら出そうと思った。なぜか。
 本というのは、自分が面白いだけでは出せない。今回の『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』ではミーティングをたくさん重ねたが、エスノメソドロジーをやっている研究者は、「あなたはこういう言葉を使うけれども、これはどういう意味ですか」という質問を許してくれる。共同研究、ディスカッションができる。 しかし理論社会学者は「ひとり一看板」で、集まってミーティングを重ねて本を出すということができない。



エスノメソドロジーでは、上からディシプリンで斬りつけて悦に入るのではなく、概念操作を(いわば)素材化することを許される。 そこでは、対象領域にまぎれて《観察する》ことと、記述言語を《推敲する》作業がお互いに混じり合っていて、メタとオブジェクトのあいだに新しい関係が模索されていると感じる。




*1:とはいえここで取り上げなかったやり取りも興味深かった。 遺伝子をめぐる語り(本書第1・2章)、ループ効果とメディア、ハイデガー現象学の扱い、など。

*2:今回初めてお会いできた。酒井氏のブログやサイトがなければ、ルーマンにもエスノメソドロジーにも興味を持つことはなかったか、少なくとも時間をかけて理解しようとするのはずっと遅れたと思う。 ▼酒井氏は、「力が抜けつつ勤勉」という不思議な印象のかたで、単に力の抜けている人、単に勤勉な人はよくいるが、「勉強家で風通しが良い」という人はあまりいない。 今回お話しされているのを聞いて、それは臨床的にも重要な印象ではないかと改めて思った。

*3:文脈上 厳密に何をおっしゃっているかはたぶんまだ私には分かっていないが

*4:学者や支援者の方法論だけなく、ひきこもっている本人の「悩みかたの方法論」まで変えてしまう

*5:本書について、「《社会参加臨床の基礎研究》という側面を持たないでしょうか」と問いかけたことに対し、酒井氏からは次のようなお返事をいただいていた: 「〈(原理的には)持ちうるはずだし、(実際に)持つといいな〉と考えながらつくった本ではあります」はてブコメント

*6:他の先生方のご発言をふくむ

*7:事業態勢を固定されたメタ言語を押しつける

*8:参照できると思ったもう一つの議論が、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』の文脈だ。今回の合評会に参加し、この二冊の本は未だ出会わないまま、事業趣旨に接点がある、と感じた。――いずれも、関与の手続きを問題にしている。

*9:エスノメソドロジーに根ざした概念分析的手法による科学現象の研究」というタイトルで、本書では第8章にあたる(参照)。

*10:受け入れられる場合は、「○○学を知ってるんだけど(キリッ」という居丈高な語りが、順応主義的な人たちに受け入れられているだけ。 排除にせよ受容にせよ、学問の語りは外部にとどまっており、現場の秩序を再編成する活動(規範の組み換え)にはなっていない。 ▼制度的所属のなさは、思考が制度的に硬直していないことの保証にはならない。

*11:《臨床》という事業と、《研究》という事業は、そこで使用される概念(ターム)が違うという以前に、事業趣旨が違う。 その事業趣旨をお互いに自覚できないままに、過剰に合流したりトラブったりしている。

*12:【13日の追記】: ここまで言ってしまえば、《対象》という言葉を使ってよい。なぜなら、「当事者」側も医師や学者を対象化すべきだし、この独特の対象化にとり組んだ者こそが臨床活動の主体となるから。事業主体であるかどうかは、「学者」「患者」という役割ではなく、対象化(分析)を引き受けるかどうかの違いになる。ベタにその場の関係秩序に埋め込まれたままになるのか、それとも脱埋め込み(dis-embedding)の上で、もういちど関係事業を仕切り直すのか。(仕切り直してまたスタティックに固定するのではなくて、対象化/仕切り直しの事業こそが継続されてゆく。) ▼「患者さんに失礼だから対象という言葉をやめましょう」だけでは、研究という自分の事業を分析しないまま、言葉狩りをして終わってしまう。(むしろ、この対象化事業を引き受けた者こそが《当事者》になる、と考えるべき。役割ラベルではなく、事業がその人を当事者化する。)

*13:「哲学者は問題を、病気を治療するように扱う(Der Philosoph behandelt eine Frage; wie eine Krankheit.)」(『哲学探究』§255)

*14:順応的な勤勉に強いアレルギーのある私がいま直面しているのは、「単なる逸脱は何事でもない」ということだ。逸脱している者は、単なる順応とは別の形で勤勉になる必要がある。(ひきこもっている人は、「単なる逸脱」と「単なる順応」を往復する人ばかり。それ自体が臨床像になっている。)

*15:内容をメモすることに必死で、どなたがどの発言をされたかが曖昧です。すみません。 録音しておけばよかった…