「体験を共有する」の難しさ

素敵。
この「Video Killed the Radio Star」は、ずっと昔に深夜にやっていた映画番組のテーマソングで、隠微な画面と音楽を、真っ暗な部屋の中で一人で見ていた。
こういう記憶のことごとくが「ひとり」の記憶でしかないというのは、何かまずい欠落の気がする*1。 とはいえ「体験の共有」は、単に同席すればいいのではないし、「手を組もう!」と言ったところで、お互いに相手を縛りあう篭絡でしかない。
「体験を共有する」という感覚の難しさを、「コミュニケーション」とかいう言葉で埋め合わせてもむなしい。
単なる郷愁(右翼や世代論)ではなく、単なるべき論(左翼や運動論)でもなく、自分たちの置かれた状況への分析的な目線をこそ、共有できないだろうか。
引き受け方のスタイルが重ならないところで、「共有」は無理だと思う。





*1:恋愛のキモは、「共有」にあるのではないだろうか。 セックスサービスを受けても、「共有」になるとは思えない・・・