生産する分析過程の技法論

アンチ・オイディプス草稿』p.22、ドゥルーズの発言より*1

 この本の技術的な面についていうと、ふたりで書くということにとくに問題はなかったのですが、それはある明確な機能を果たしていたのであり、われわれはそのことを徐々に自覚するようになりました。精神医学や精神分析の本のなかで大変不快であるのは、そこを貫く二重性、つまり病者と思われる人が言っていることと病者の面倒を見ている看護者が言っていることとの二重性です。 〔・・・〕 われわれは狂人の本をつくろうなどと思ったわけではまったくなくて、正確には誰が話しているのか、看護者なのか看護される者なのか、いま現在の、過去の、あるいは未来の病者なのか、そうしたことがもはやわからない、もはやわかる必要がない、そのような本をつくろうと思ったのです。 〔・・・〕 ところで奇妙なことですが、われわれがこの伝統的な二重性を越えようとしたのは、まさしくわれわれがふたりで書いていたからなのです。われわれのどちらも狂人でもなければ、精神医学者でもなかったのですが、精神医学者にもその患者にも還元されないような、あるいは狂人にもその医師としての精神医学者にも還元されないような過程を解き放つためには、ふたりでなくてはならなかったのです。
 Quant à la technique de ce livre, écrire à deux n'a pas posé de problème particulier, mais a eu une fonction précise dont nous nous sommes aperçus progressivement. Une chose est très choquante dans les livres de psychiatres ou même de psychanalystes, c'est la dualité qui les traverse, entre ce que dit un malade supposé et ce que dit le soignant sur le malade. [...] Nous, on n’a pas du tout prétendu faire un livre de fou, mais faire un livre où 1'on ne savait plus, où il n’y avait plus lieu de savoir qui parlait au juste, un soignant, un soigné, un malade présent, passé ou à venir. [...] Or, bizarrement, si nous avons essayé de dépasser cette dualité traditionnelle, c'est précisément parce que nous écrivions à deux. Aucun de nous n’était le fou, aucun le psychiatre, il fallait être deux pour dégager un processus qui ne se réduisait ni au psychiatre ni à son fou, ni au fou ni à son psychiatre. ("Ecrits pour l'Anti-Oedipe", p.23)*2

話しているドゥルーズがどこまで自覚的か分からないが、
「技術的な面について」と訳されている「technique」は、精神分析では《技法》と訳される*3。 つまりここでは、ひとりで形にできないものを《つくる技法》が語られている。 これは「つきとめる解釈」*4とは別の、《生産する分析》の技法論に見える。

付記

  • 事業の共有は、多くの場合かえって生産性を落とす(参照)。 コラボレーションとか agencement とか、恰好よさげなレッテルは禁欲すべき。
  • 本人たちの意識的な《つもり》と、いつの間にか生きられていた技法の実態は違う。自転車の運転がそうであるように、「いつの間にかやれていた」という技法がある。それは「言説化しにくい」というより、言説化できないからこそ生き得る技法。そこに照準できないか。



A の当事化と B の当事化が、生産する分析過程を共有する*6。 だとすれば、部分的で一時的な共作しかあり得ない。大文字のイデオロギーや理念を共有するタイプの共作ではなく、分析という創発過程の共有にすぎない。それぞれの創発の進展にともなって、切実さの焦点はズレ得る。


結論部分(作品)より、この技法部分にこそ真髄があるように思う。
「理論というものは、こういうタイプの結論を目指さなければならない」という前提を死守して、
結論部分だけをあれこれ論じても、これが技法論であることに気づけない。
「そんなふうに論じている自分自身の制作過程」、そこで前提にされている技法論をこそ問われている。



*1:無人島 1969-1974』pp.154-155 から引用されたもの。

*2:新しい版が出ている。

*3:ラカンフロイトの技法論〈上〉』の原題は『Les Ecrits techniques de Freud』。

*4:精神分析の概念枠に落とし込んで患者さんを「解釈する」

*5:熟議は、時間をかければいいのではない。「時間をかけたこと」そのものが神経症的抑圧のアリバイになってしまう。

*6:片方がもう片方の書記となるが(参照)、それは《分析的に生産する書記》であり、古典的な能動・受動関係(単なる命令通り)ではない。