宇野邦一『【現代思想の現在】ドゥルーズ---群れと結晶 (河出ブックス)』p.19 より*1:
丸山眞男が『忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)』で、日本の歴史意識の「古層」について述べたことは、いまも強く印象に残っている。彼はその「古層」を形成する三つの範疇について述べた。「なる」、「つぎ」、「いきほい」の三つである。主として記紀神話を参照しながら、丸山は日本における世界創造神話をつらぬくのは、世界を「うむ」でもなく「つくる」でもなく、「なる」という論理である、と指摘した。 「生・成・変・化・為・産・実などがいずれも昔から「なる」と訓ぜられ、それらの意味をすべて包含してきたということは、たんに日本語の未分化とか、漢字の本来の意味への無関心というだけでは片付けられない。古代日本人にとって、これらの意味すべてを包括する「なる」のいわば原イメージがあったのではないか」。 「この成長・生成の霊力の発動と顕現(隠→現)を通じて、泥・土・植物の芽など国土の構成要素および男女の身体の部分が次々と成って、イザナギ・イザナミの出現で一段落する」*2。
ユダヤ・キリスト教の世界創造神話は、これに比べてはるかに「つくる」論理によって構成されている、と丸山は述べ、記紀神話の「なる」論理をこれと対比したのだ。「なる」論理においては、「つくる」主体は不在であり、主体でも客体でもないものが、ただ植物のように自生的に成長し続けることになる。
ひきこもり状態に《なる》とは言うが、それを《つくる》とは言いにくい。 しかし世間的には引きこもりは《つくっている》と理解されるから、糾弾される。 「努力すれば改善できるはずなのに」。
《なる》というなし崩しの状態に、《つくる》要因を導入することがヒントになる。
ややこしいのは、むしろ引きこもりは、《つくろう》という作為そのものが《なる》に落ち込んだ状態だ、ということだ*3。
つまり、《なる》という内発的生成がうまく働いている間は、ひきこもるという極端さに固着する必要がない。ひきこもり状態は、そもそも《つくる》の病(やまい)――病はあくまで《なる》ものであって《つくる》ものではない――といえる。
うむ | 外因性 発達障碍 |
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なる | 内因性 うつ病、統合失調症 |
つくる | 心因・社会 ひきこもる |
発達障碍と診断された皆さんについても、
《なる》や《つくる》の問題ではないのか、という疑いがある【参照1】【参照2】。
本田由紀氏の twitter より: