梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)氏
「情報センターISIS」スタッフ、1973年生まれ。
私自身の「ひきこもり」経験は、支援活動に従事していることについて何ら必然性を持ちません。 過去にひきこもる若者の一人であったという経緯が、現在お悩みの皆さんへの理解に結びつくとは決して思わないのです。(p.150-151)
不登校・中退の経験者でありつつ、現在は支援活動をされている金城隆一氏も、同様のことをおっしゃっている。 とても誠実な自制だと思う。
はたして、彼らは望んでひきこもりになったのでしょうか。 そうではありません。 端的には、望む望まないにかかわらず、彼らは否応なくひきこもり状態に置かれています。 「ひきこもり続けるほかない」、「そうせざるを得ない」という気持ちが彼らの率直な思いです。 (略) 〈行く場〉を求めてやまない若者の願いは、社会を求めてやまない願いともいえるのです。
「望んで引きこもったのではないが、社会参加を求めている」と明言されている。 経験者であればどのあたりの事情を話しているのかはわかると思うが*1、一般的には「矛盾している」とされるだろう。
「本当にひきこもりを望んでいないのならば、家を出られるはずではないか」 「本当に社会にかかわりたいと思っているのか」*2など、《欲望》をめぐる描写はいくらでも錯綜するし、かけるエネルギーのわりには、「理解できない」と主張する人を説得できない。
そもそも、「本人が何を望むのか」ということは、親子間や社会との関係を調整するに当たって、それ自体が万能の尊重を受けるわけではない。
梅林氏自身が、関係調整の問題意識で発言されている箇所がある。(p.162-3)。
ただ一方で、家族の苦しさは見逃してはならないでしょう。 永遠とも思える時間の中で、家族は身内としてひきこもった若者を抱えています。 崩壊するぎりぎりのところでなんとか家庭を維持しようとする家族は、若者本人とはまた違った次元で苦しみの中にいるのです。 崩壊する家庭を救って欲しい――。 〈訪問〉とは実質的に、そんな家族の叫びから依頼を受けるものなのです。
親の要請する訪問活動は、90〜95%以上が本人に拒絶されるといわれるが*3、ここでは、ご家族の事情が斟酌されている。