大屋雄裕 『法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ』

p.198より。(強調は引用者)

 運動としての法とは、問題を可能な限り三人称的な地平において、個々人の一人称特権を許さないような形で記述する試みである。 今、個々人の意見の相違が当然存在するものと考えられるとき、そこでは逆に言えばある人の抱いた意見が何ら批判的考察にさらされることなく流通するという事態が成立している。 これがその問題について一人称特権を認めたと言われることは明らかである。 従って政治的問題と扱うことはそれについて一人称特権を許容することであり、法的問題とすることはそれを三人称の世界に取り込もうとすることである。 他者の行為についてその正当性を問う問いを発するとき、そこには常に法の活動への道が開かれるのだ。



一人称特権をとりわけ重視する「当事者」というモチーフは、まさに「政治的」といえる。
しかし、民事や刑事の「訴訟法」において、すでに「当事者」という枠組みは機能している。