映画 「それでもボクはやってない」

とにかく観にいってよかった。
「証拠がない」ことの理不尽さ。
事情をよく知らないまま、力のない状態に追いやられることの怖さ。
このブログをご覧くださっている方々と、ぜひ話題共有したいです。
公開期間がそろそろ終わってしまうようなので、お早めに・・・



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ただし、痴漢などの被害に遭った女性のほとんどは、泣き寝入りしているはず。
「泣き寝入りの撲滅」と、「冤罪の撲滅」を両立させることは、冷静に考えれば無理。
「両方を追求するべき」としか言いようがない。

個別ケースよりも、環境そのものを変えるべきだ、という意見。




木村剛むしろ「男性専用車両」を作った方がよいのでは?

 警察庁で管理職をしている友人に聞きますと、「とにかく、痴漢に間違われたら、振り切って逃げること。 俺は何もしていないから大丈夫などといって、警察に行ったら逮捕されてしまう。 無実の証明ほど難しいものはなく、被害者が『私は触られた』と主張している以上、警察としては拘置するしかない」などと言っているんですから・・・。

怖すぎる。
振り切って逃げたら、本当にやったようにしか見えない。 それに、もし逃げ切れずに捕まってしまったら? 「逃げたということは、やっぱりやったんだろう!」となる。
誤解された時点で、ほとんど人生は終わっている。




最近、しみじみと思うのだが、社会に参加するとは、こういう誤解の危険に身を晒すということ。 痴漢だけでなくて、社会生活はこんな話ばっかりだ。 力の弱い者ほど、いろんな嫌疑をかけられて潰されてゆく。
「自分は無実ですから」という真実は、社会的なシステムに巻き込まれてしまったときには、独りよがりな「思い込み」にすぎない。
この怖さは、人類史がどんなに長く続いて科学技術が発達しても、解消できない。――解消できるなら、それを実現することが、社会参加を楽にする方法のひとつだと思う。