「理論は要らない」という言い分の恣意性

その意見自体が理論として提出されている。
「どこまでの理論なら要るか」の水準決めは恣意的。
これはそのまま、「再帰性は要らない」の議論に重なる。
再帰性も理論も、「要らない」のではなくて、「常に生きられている」
リアルタイムの終わりなき検証を生きることしかできない。
そのことにおいて、「決着はついている」。