運動体、アカデミズム、当事者(参照)。 この3つを単に対立させるのは不毛だ。 それぞれにおいて、すでに生きている前提の分析が要る。
アカデミシャンは、みずからを現場として分析することを拒否する。支援現場は、みずからがすでに理論を生きていることを否認する。当事者は、「自分は当事者なんだ」のナルシシズムに淫し、差別的な自己優遇と自己嫌悪を往復する。――いずれも、「単に理論をやり、単に現場をやり、単に当事者をやる」でしかない。
ここで必要なのは、理論が現場におもむき、現場に理論をもたらすことではない。それは、無反省な理論的態勢がみずからの目線を疑うことなく、対象領域を広げることにすぎない。 立場がどうあれ、単に「理論を勉強すること」は、アリバイにならない*1。 それは、覇権的な目線の制度を体現し、自分と周囲を支配しようとすること。
「臨床哲学」や「臨床社会学」が、みずからの目線のディシプリンを疑うことをしないのであれば、「現場的試行錯誤をメタから観察している」だけになる。 現場の試行錯誤から、「メタな収穫を得てくるだけ」であれば、それは現場のディテールに即したリアルタイムの自己解体にならない。
【追記】
「はてブ」にいただいた、tokyocat さんからのコメント(ありがとうございます)。
id:tokyocat: 「誰が間違っているわけでもない」のではない、「3者がそれぞれに間違っている」ということ。
まさにその話です。
ひきこもりでは、不毛な「犯人探し」を避けるために、「誰が悪いわけでもない、でもこうなってしまった」という話に落ち着くことが多い。 しかし、それでは自分たちの状況を何も変えられない。 誰か一人だけを悪者にして切断操作するのではなく*2、全員が自分の事情を検証し、お互いに学び、批判する*3。 自己検証の風通しをつねに残し、「当事者尊重」すらもルーチンワークにしない。 具体的改善の作業においては、全員がつねに検証に晒されているはずです。
*1:私がここで語っているのは、「勉強は必要ない」などということではない。むしろ、専門性を知った上での分析や風通しをこそ問題にしている。▼順応することでかろうじて社会復帰した人は、異様に強迫的な順応主義で周囲を威圧することがある。逆に、ものすごく優秀で勤勉な人が、順応主義的でないことがある。
*2:仮に誰かが圧倒的に悪いとしても、その指摘構図そのものを固定化しては安住してしまう。結論としてではなく、プロセスとしての「○○が悪い」。 また改善すべきなのは、制度全体なのかもしれない。
*3:この「全員が」には、社会のほかの人たちや、政治・行政の関係者も含まれます。それは、「社会のせいにする」というのとは違う話であり、自己検証の構図こそが問題になっています。