作品活動はセラピーなのか
公開シンポジウム「美と病のトポロジー」を聴講した。
本シンポジウムは、美と病の交錯を「トポロジー(つながり具合、位相を明らかにする学)」の観点から総合的に論じることにより、これまでの成果をさらに掘り下げようとするものです。精神医学・美術批評・文学研究等を専門とする研究者およびキュレーター、セラピストなどの実践家が、芸術療法の思想的な位置づけ、治癒における作品のクオリティーの問題、マーケットや障がい者アートの問題などをめぐって多角的な問題提起をおこないます。
以下は直接的な批判や報告ではなく、私の問題意識のメモ。
夏目漱石は統合失調症だったという説があるが*1、では彼の創作活動は、「アートセラピー」の枠に入れるべきだろうか。あるいは病気でなければ、「立派な芸術」になるのだろうか。
芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成、etc... の自殺は、セラピストとして振る舞うべき編集者の失態であり*2、「アートセラピーの失敗」と考えるべきだろうか。
むしろ逸脱と作品活動には、連続性がある。 セラピー枠を役割理論的に固定してしまうと、そういう枠を踏み越える活動を最初から囲ってしまう。それは最悪の侮辱であり得る*3。
評価する行為が、言葉だけではない介入であるような評価が要る(というか、介入でないような評価はない)。
評価する側が、おのれの当事者性をどこまで自覚できるか。その場合の当事者性は《弱者性》ではなく、制度的な加担責任のこと。そして、同じ人をずっと同じ役割で扱うべきではない。ある時点で切り替えれば済むのでもなく、リアルタイムの観察が要る*4。