作品活動はセラピーなのか

ueyamakzk2011-09-27

公開シンポジウム「美と病のトポロジー」を聴講した。

 本シンポジウムは、美と病の交錯をトポロジー(つながり具合、位相を明らかにする学)」の観点から総合的に論じることにより、これまでの成果をさらに掘り下げようとするものです。精神医学・美術批評・文学研究等を専門とする研究者およびキュレーター、セラピストなどの実践家が、芸術療法の思想的な位置づけ、治癒における作品のクオリティーの問題、マーケットや障がい者アートの問題などをめぐって多角的な問題提起をおこないます。

以下は直接的な批判や報告ではなく、私の問題意識のメモ。


夏目漱石統合失調症だったという説があるが*1、では彼の創作活動は、「アートセラピー」の枠に入れるべきだろうか。あるいは病気でなければ、「立派な芸術」になるのだろうか。

芥川龍之介太宰治三島由紀夫川端康成、etc... の自殺は、セラピストとして振る舞うべき編集者の失態であり*2、「アートセラピーの失敗」と考えるべきだろうか。

むしろ逸脱と作品活動には、連続性がある。 セラピー枠を役割理論的に固定してしまうと、そういう枠を踏み越える活動を最初から囲ってしまう。それは最悪の侮辱であり得る*3

評価する行為が、言葉だけではない介入であるような評価が要る(というか、介入でないような評価はない)。


評価する側が、おのれの当事者性をどこまで自覚できるか。その場合の当事者性は《弱者性》ではなく、制度的な加担責任のこと。そして、同じ人をずっと同じ役割で扱うべきではない。ある時点で切り替えれば済むのでもなく、リアルタイムの観察が要る*4

    • 人にかかわるトポロジー(つながり方の幾何学)は、静態的に描くべきではない。理解する側の視線にも、身体的な時間がある。 スタティックに描いて終わろうとする視線をこそ、問題にしなければならない。




*1:google:夏目漱石+診断

*2:アートセラピーの実務を伺っていると、執筆者に付き添う《編集者》の仕事に重なる。メンタルヘルスに気を使い、環境を整え、etc...。 ただし編集者では、マーケットへの配慮が圧倒的に流入する。

*3:一部の引きこもり関係者にとって、私の著作やブログは「セラピー」でしかない。仕上がった作品は、医師や学者と同じ身分にあるとは見なされない。あくまで「観察対象」なのだ。

*4:そこでやはり、「ソーシャルワーク」という言葉を使いたくなる。 「social+work」というのは、よく見るとすごい言葉だ。