「怒り」と「罪悪感」は、ものすごく扱いにくい感情だと思う。

でも、逆に言うとそこにはものすごい電圧があって、だからものすごい動機づけになるかもしれない。 拙著でもわずかだけ触れていたが*1、この辺のことはどう扱っていいか、ずっとわからずにいる。 あらためて重要なモチーフだと感じ始めているので、いくつかメモしておく。

  • 怒りを、《内発的な社会的動機づけ》とは見れないだろうか。 ▼「悩み」は個人的だが、「怒り」は、最初から一定程度社会的。 「悩み」ではなく「怒り」なら、他者も批判的に扱いやすい(怒っている本人が独り善がりでしかない場合も多い)。 ▼玄田有史氏は、「怒るために仕事をするってのはどうだろう」と提案しているが、重要なヒントだと思う。 「働かなければならない」という要請は、「生き延びたい」という欲望を条件とするが、「絶対に許さない」というのは重要な欲望だと思う。 いやむしろ、「許せない」という感情から、遡及的に欲望が明らかになる。 ▼問題はむしろ、「そこまで執念深く怒れるか」ということ。 怒り続けるのは苦しいし、生活感情を蝕んでゆく。 → 怒りの断念は、「欲望の譲歩」(ラカン)に当たるか?
  • 激しい罪悪感は、自分への激しい怒り。
  • 長田百合子氏の引きこもり支援を取り上げたTV番組で、長田氏が相談者の家に乗り込み、両親をせきたてて親子対決させるシーンがあったが、親はいったんは怒鳴りつけ、息子の体を引き倒したものの、すぐに途方に暮れてしまった。 長田氏はそれを見てため息。 無理すぎる。 ▼怒りは、外部から強制するものではない。 むしろ眠っているエネルギーにどう手続きを作るか、という問題だと思う。 暴力的に激発させればいいということではない。
  • 怒りについては、「個人的なケア」と、その怒りを担保する「社会制度」の問題をひとまず分ける必要がある。 個人的な愛情関係においては無限のケアがあり得ても、社会的にはそうはいかない、など。
  • 「解離の称揚」は、「怒り」とどう関わるのだろうか。 それは、「泣き寝入りしなさい」という要請になる? ▼外部から怒りを断念させることは、それ自体が「権力的な内面操作」だし、動機づけの重要な要素を奪うことになる。
  • 怒りは、多くの場合本人にも自覚されていないか、自覚されていてもうまく扱えていない。 私の場合、廃人のような無気力に沈むか、激怒に取り憑かれて何もできなくなるか、という両極端の往復が多い。 無力感なんだと思う。
  • 怒りを治療するのか、怒れない状態を治療するのか。
    • 「怒るのをやめればすべて丸く収まる」と思いつつ、怒りをうまく飼い馴らせない。 というか飼い馴らすべきなのか? 悪しき治療主義は、「怒り続けて社会に順応しない個人」を矯正する。 ▼これは、「社会的なロボトミー」論とも言える。
    • 怒りは、個人を政治化する重要な契機だと思う。 しかし一方、怒らずにいる権利もある。
    • 「もはや二度と怒りたくない」という願望もある。 「もう二度とトラブルを体験したくない」。 ▼しかし、怒りを体験しないということがあり得ず、社会生活がトラブルでしかあり得ないなら、「怒りたくない」は「生きたくない」に近づく。 それは、「もはや二度と欲望したくない」に似る。




*1:pp.187-195、「泣き寝入り」「自分の現実を構成できずにいる」など