羞恥心をあおること

大学における準ひきこもりという存在」を読んだ人の多くが、「これは自分のことじゃないか」と感じている。 【大量のTB先】、【はてブ
元になった樋口康彦氏*1の論文は、「非社会的」とされる傾向を「問題」として描き出すことによって、「思い当たるフシのある人たち」の一部に、強烈な羞恥心を引き起こしている。 しかしここで反応しておられる人たちは、曲がりなりに社会生活や対人関係を続けているのだと思う(「ひきこもり」ではなく、「準ひきこもり」だというのだから)。
完全に何年間も引きこもった人が、「立派な社会人」から同じように問題視され、問い詰められたら、どれほど立つ瀬がないか、どれほど恥ずかしいか――樋口論文の読後感を手がかりに、想像してもらうことはできないだろうか。 ひきこもりは、異常に恥ずかしい。 その羞恥を増幅することで本人の社会意識を高めようとする試みは、傷口に焼け火箸を突っ込んで治そうとするようなもの。 【そもそも社会意識が高くなければ、「恥ずかしい」とは思わない。】
同時代の規範から見て「非社会的である」とされる状態像自体は、多様な生き方の一つとして承認されるべきだし、そもそも羞恥心を増幅させる非寛容な周囲の目線自体が、非社会的なあり方を強化してしまう。 ▼非社会が問題なのは、「社会参加すべきである」という規範に適合していないからではなくて、「それでは生きていけないから」、「自他に苦痛があるから」だ。



*1:樋口明彦」氏にあらず