切り口

阪神大震災時、私は震源地の直近で被災したが、家族に犠牲者はなく、家は修繕してそのまま住み続けた。他地域の方から見れば私は「被災者」の一人だが、阪神間の人間同士では、私の当事者性は非常に低い。 → 「自分の肺で呼吸ができる」ような異常な《自由》感、近隣住民との「労働の共有」感、貨幣の使えない状況ゆえの強烈な「経済」意識。ダメージの深刻さから言えば私の当事者性は非常に低いのだが、あそこには確かに「原点」があった。
もう一つ参照項がある。私のある知人は、どんなときにも「旅行者・傍観者」として物事を眺めているという。仕事をしていても、自分の苦しみについても。 → 私のように「当事者」として振舞うことは、いわば自分の問題とピッタリ一つになってしまうことであり、そのことが確実に苦しみの原因の一つになっている。
問題意識を持たない硬直した人間には、「当事者意識を持て」と言う必要がある。しかし、当事者意識そのものに縛り付けられたり、そこに安住してしまったりすることもある。

    • 責任を追及される形で問題にされる「当事者」(職業責任)と、責任を問われない形の「当事者」(被害弱者)と。前者は労働を課される側であり、後者は労働を課す側である。すべての人間には、多層的に両方の属性があるのではないか。

当事者論に全力投球したあと、当事者性を回避する考え方や立場を思い出し、救われたこと。このことの意味をもう少し考える必要がある。あと、杉田俊介id:sugitasyunsuke)さんが言っておられた、「当事者というよりも《現場》」もずっと気になっている。「当事者」というと、属性において人間を取り上げているが、《現場》というと、課題との関連において人と状況が共に問題になっている。私は、「属性ではなく課題」と言っているのだし、《現場》という切り口のほうがいいのではないか。
「当事者」とは、「苦しみの現場を生きる者」であり、その意見を尊重することは、「現場の意見を尊重する」ことに含まれる。――そういう発想にずれ込めないか。

    • 和英辞書に、そのままのフレーズがあった : “respect the opinion of those who are doing the actual work

このことは、「制度論的精神療法*1」が「制度分析」と「自己分析」を同時遂行することとも関係する。



*1:参照