「かかと」

ある論争について三脇氏から伺った。(私の理解した範囲での言及なので、以下の要約責任はあくまで私にある。)
ある臨床例において、「かかと」への注意集中が起きることについて。個人レベルだけで考えれば、それを「性愛的」に解釈することになる(ラカン的?)。執着部位を「社会的なものへの回路」と考えれば、闘争要因との接続において考えることになる(ガタリ的?)。
以前の合田正人氏の講演時、「ゲシュタルトの動態化」というお話があった。正確な理解ができたとは思わないが、私は次のような自分の経験とリンクして聞いていた。▼私の意識は、つねに離人症的な所在無さに苦しんでいる。「ここで何をしているのか、ここはどこか」。世界は薄い膜いちまい隔てた向こう側にあり、その「あちら側」と、「こちら側」を結び合わせるのは、プロセスとしての言説作業であり、それは私にとって《創造》の営みとして、芸術表現のプロセスと理解されている(それが私にとって、自己支持的・自己支援的な「労働」といえる)。その創造のプロセスが滞るとき、私は世界との関係を失い、時間経験はひたすら苦痛になり、自意識に監禁された私は世界へのとっかかりを失い、為すすべもなく不安に縮こまる。時間は拷問となる。――この苦しみを理解するのに、「かかと」の話がヒントになった気がする。