「ひきこもり」 → 「ニート」?

ニート」という語の登場によって「ひきこもり」が廃れてしまった、という見方もあるようです。 しかし『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』にも描かれていますが、ニートの最深刻層はやはり「ひきこもり」状態にあり、語の運用価値は残っている。 【id:hikilinkさんと同じく、私も「ニート」概念の支配が、真に深刻な引きこもり当事者の問題を隠蔽し、忘却を促してしまうことを危惧しています。】


「相談者に数人の仲間ができるまでが自分のミッション」(大意)とおっしゃる斎藤環さんに対し、「仲間ができるまでは高確率で成功しても、最難関かつ絶望的なハードルは、じつはそのあとに待ち構える継続的就労にある」と拙著で反論(?)しつつ、なかなかそれを話題にする筋道を作れずにいた*1私からすれば、「ニート」の流通によってようやく就労問題を前面に論じることができるようになった、といういきさつがあります。 【それまでは引きこもり業界で「就労」を話題にすれば、当事者サイドから「あー、あんたも≪働け≫のパターナリズムか」と言われて終わることがほとんどだった。】


KHJ親の会」の集まりで「ニートの話題ばかりだった」とのことですが、親御さんたちは当然ながら以前から「就労」のことばかり考えていたものの、これまではそれを表立って口にすると、「働けという説教しかできないのか」と反論され、就労のことを話題にすることが憚られる状況があった。 それが「ニート」流通によって、就労を、それも「働く意欲がない(自発性の喪失)」という問題を核に据えて議論できる雰囲気ができた。 同じような事情は、当事者同士の議論においても言えるのでは。 → 「ニート」という単語が、「ひきこもり」をあらためて「就労」との関係に置き直し、議論の風通しを良くしたことは否めない。
しかしこれらは、「ひきこもりの流行が終わって次はニート」というような皮相な話ではなく、「議論文脈の変化」というぐらいに見たほうがいいのではないでしょうか。 そもそも(繰り返しますが)、「ひきこもり」という語の流行が終わったからといって、その深刻な状態像に苦しむ数十万人の状態が改善されたわけではない(冗談ではない)。 以前から社会に潜在し、90年代に「発見された」マイノリティが、再び「忘れ去られようとしている」にすぎない。 その忘却によって当事者の問題が深刻化する様相があるなら、忘却には抗う必要がある。――そんな感じでしょうか。





*1:私が「引きこもりは結局は労働問題だ」という文章を書いたのは、本を出す1年前、今から4年ほど前です。