概念の運用益

前日に引き続き、id:hotsuma さんの「『ひきこもり』概念の余命は長くない。」について。*1

 ぼくは「ひきこもり」概念の余命は長くないと思っている。 この概念が廃れた後には、「対人不安が強過ぎて家族ぐらいしかしゃべれない」ヒトたちをカテゴライズするために「社会不安障害」(社会恐怖)が普及するのではないだろうか。 概念はヒトが支えないと消えてしまう。 製薬会社とAPAは「社会不安障害」概念を強く支持している。 「ひきこもり」概念を支えるヒトは少なく、その力は弱い。



いくつか疑問があるのですが、「ひきこもり概念を支えるヒトは少ない」というのですが、これはひとまず「流行が終わった」というような漠然とした印象論でしょうか。
私自身は、「ひきこもり」概念を支持すべきかどうかは、もう純粋に政治的・臨床的意義からの検討に尽きます。 意義があるなら使えばいいし、ないなら辞めればいい。
たとえば数年前に「アダルト・チルドレン」という言葉が流通し、最近はあまり聞かれなくなりましたが、あの単語で名指されていた状態や苦痛が消え去ったわけではないのですから、「流行」とは別に、語を使う意義はあるかもしれない。


社会不安障害」「社会恐怖」は、社会参加している人にも適用できる概念だと思いますから、「ひきこもり」という言葉がなくなってしまっては、「まったく人間関係・社会参加がなく、完全に家に閉じこもっている」ケースを、それとして問題にしにくくなるのではないでしょうか。【たとえばこちらこちらのページでは、「完全に引きこもっている」ケースは(少なくとも表立っては)問題にされていないように思われます。】
あるいは、ひきこもりのケースの一部においては、「社会」を恐怖するだけでなく、「家族」に対してすら会話や接触を忌避するのですが、これも「社会恐怖」と呼ぶべきでしょうか。 あるいは、洗浄強迫や拒食症によって引きこもり状態に陥っている場合、それも「社会恐怖」で括るべきでしょうか?
――やはり「ひきこもり」という語には、まだ運用益があるように思うのですが。


しかし逆に言えば、「社会恐怖」などの運用にも政治的・臨床的意義があるなら使えばいい訳で・・・。 たとえば「ひきこもり」という名詞化があまりに「恥ずかしく*2」、差別的レッテルとして機能するとして、「社会恐怖」のほうがよりレッテル化しにくいかもしれない。 あるいは「ひきこもり」という、状態像を名指す表現より、「社会を恐怖する」という症状を名指すほうが、取り組む上で便利な局面もあるかもしれない。
「ひきこもり」にはつかなかった国家予算が、「ニート」にはあっという間についた、という顛末については、id:kanryo さんがご指摘くださった通りです。





*1:2日に渡って id:hotsuma さんへの反論が続きますが、ここで展開できた議論の多くは、id:hotsuma さんから頂いたレスポンスのおかげでもあります。

*2:当事者や親御さんから、「ひきこもり」という言葉が嫌いだ、という話を何度聞いたことか。