メモの終わりに

思想や哲学に興味のある当事者は多くても、ヒキコモリという状態そのものを巡って思索してくれる人はあまりいない。「ボクつらいんです」というベタな当事者語りはたくさんあっても、その自分の発言や置かれた状況そのものを分析的に理解する作業(メタ語り)は、あまり誰もやってくれない。
【付記:本当は、当事者と支援者が自分の立場(オブジェクトレベル)をカッコに入れながらメタ語りし、お互いの状況や機能を検証する必要があると思う(要するにロールプレイとその検証だ)。これができる支援者や当事者は何人いるだろう。盲目的な「治療主義」のなかでは、こうした作業は不可能だ。当事者とともに、支援者も自らの活動についてメタに語れなければならない。】


僕には系統だった基礎教養がなく、学問的なテーマに言及したとしてもそれはいわば素人語り、あるいは「ヒキコモリ当事者としてはこう考えてしまうんですけど」というサンプル提示でしかあり得ないと思っていたのだが(野心から言っても能力から言ってもポジションから言ってもそれが相応だと思えた)、そういう卑屈な謙遜はやめにして、もっとガップリ四つに組むべきなんだろうか。


しかし、その作業を続けていくためには食っていかねばならない。語ろう(考えよう)とする意欲が「生きよう」という意欲を支えるならありがたいが、大学教員や作家になれない者が家に閉じこもってウンウン考えてもそれがどんな「明日」を生むだろう。
言い古された言葉だけど、「モチベーションの創造」(自分と他人を動員すること)こそがもっとも喫緊かつ最難関の仕事だ。これだけ陳腐かつ否定的な材料しかない複雑な状況から、わかりやすく魅力的な問い(希望)を析出するのは容易ではない。


僕ら以後の世代に、どんな仕方で「夢中になる」体験があり得るだろう。「夢中にさせる」体験を、僕らは創造できるだろうか。
「夢中になる」ためには、適度の「単純な目標」が必要だ。
僕らの生活を遊びにする、それが僕らのライフワークか――いや、しかし「遊び」にならないからこそ苦しむわけで・・・・。


 ひとまず今は、「語ることと書くこと」――問いを洗練させること――の中に、ヒントを探したい。
 魅力的な問いへの従事が、そのまま人生になってくれればいいのだが。