一つの学問的決着は、新たな問いの生産にすぎない。ただし問いは深化されている。
それと同じように、生活努力においても、日々の答え(=稼ぎ)と同時に、どこかで深化されていく問いの要因を持たなければ、持続的にやっていけないのではないか。
- ある方から、「solution の名手であるよりは、問いの名手であってくれ」と言われた。ものすごくうれしかったし、大事な指針をもらった言葉。
- 真理にも動員力があるが、問いにも動員力がないか。
- 「世界の意味」を求めるとダメだが、「世界を問いとして捉える」というのは陳腐すぎますか。「世界とは悪い冗談だ」というのも思い出す。
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- 【真理】 → 「へぇ」
- 【問い】 → 「・・・・・・」(沈黙)
今の僕は、「問い」の明確化の中にもっとも充実した果実があるような気がしている。しかし、そのためには一度「好きなものは好き」という盲目的な病に罹患する必要があると思っている。(僕は「発病していない健康な人」が苦手だ)