詩的に楽しむということ、そして≪現実≫

 「気に入った人物は詩であり、私を詩にしてくれる」。 イエス、なるほど。
 しかし、小さな子供は必ず詩だろうか。

 合理的目的意識(生活の言葉?)とも私性とも無縁な態度はまさに「詩」と呼びたくなる。


ここで僕が思い出すのはむしろ「遊び」という感覚。

  • ニーチェの3段階 : 「ラクダ(忍耐) → ライオン(勇気・戦闘) → 小児(遊び)」  つまり「遊び」に至上性がある。
  • 「学問も芸術も遊びだ」という発言はよく聞く。 「遊びをせむとや生まれけむ」
  • 「≪遊び≫の反対は、≪真剣≫じゃなくて≪現実≫だ」(フロイトだっけ?)

「遊び」では、「私性」なんて邪魔だ。「現実」では、「私性」を常に気にしていないと崩壊する。(だからビクビク怯えてる。 → 生活恐怖が「私性」を作ってる面がないか。)


バフチンに「生活の言葉と詩の言葉」という論文があって、これはたしか「芸術の言葉でさえ社会的形成物なのだ」という論旨だったと思うが、逆に彼は「生活経験がそのままで芸術経験でなければならない」というようなこともどこかで言っている。「芸術は社会的であり、生活は芸術的だ」というこの言い分、10代の僕は熱中したんだけど、やっぱりマルクス主義者の戯言でしかないだろうか。
「芸術は現実であり得るし、生活は遊びであり得る」という視点は、ヒキコモリが深刻化して生活苦を考えねばならないようになって以後の僕からはほとんど顧みられなくなり、それは同時に精神が荒廃してゆくプロセスでもあった。


「子供から大人への変化」は、遊び=詩が散文的現実に取って替わられるプロセスだ、という陳腐な幻滅的事実がすべてだろうか。大人になって以後にも生活努力が「遊び」であり得るのは、一部の才能に恵まれた人たちだけか。


「好きなことを仕事に」という村上龍@『13歳のハローワーク』(ISBN:4344004299)は、「自分のやっていることに果汁を求める」ことで流動的な生活世界や溢れる情報を縮減しようという態度。「意味があるから」という理由でその仕事をするのではなく、「好きだから」という「味わい」主義*1
これは単なる実感信仰や精神主義とばかりも言えなくて、「好きなこと」を仕事にしていれば苦痛なく勤勉になれるし熱中できるから、自然と競争力がつく。生き残る知恵、つまり機能主義的選択としての「好きなことを仕事に」なのだ。*2



*1:宮台氏だったらこれも「強度」と言うのかな。

*2:「好きなことを仕事にする」ことが本当にサステナブル(sustainable)かどうかは、また後日考えたい。