• 斎藤環『ひきこもり文化論』ISBN:4314009543 に、論理的時間における「せき立て」と引きこもりにおける「焦燥感」は違うものだ、という指摘がある。(p.93)
    • 僕はこれを、認識がオブジェクト・レベルに身を置いた「せき立て」と、認識をメタに温存してしまう(つまり認識が無時間を生きる)「焦燥感」というふうに理解したのだけど、違うだろうか。
    • ≪象徴的なもの≫に巻き込まれる「せき立て」と、≪鏡像的なもの≫にとどまる「焦燥感」だろうか。
    • 認識自体が行為に巻き込まれてあることに対する不安感。自分の判断に基づいて行動を起こすときに感じるなんともいえない浮遊感覚。「命がけの飛躍」「底が抜けている」
    • 焦燥感においても、オブジェクト・レベルにある自分自身を「感じてしまう」のだけど(それゆえの焦燥感なのだけど)、手も足も出ない。欲望の触手が神経症的に萎縮している。


  • 僕は実はこの辺の話をある知人ジジェクを僕に教えてくれたのは彼だった)といっしょに「商品化」と「≪現実的なもの≫への固執」という言い方で論じていて、これがかなり決定的な立場の相違になったのだった。たしかもう10年も前の話だ。
    • 「商品化=象徴化」されることによって社会的に生まれ直さなければならない、とする知人と、≪現実的≫な「穴」への固執から離れられなかった僕と。
    • 勝てば官軍ならぬ「売れれば官軍」の商品世界のリクツと、個人が商品の論理に逆らってでも固執しなければならない、いや固執してしまう何かと。(むしろ固執は無意識的だ)
    • 僕は自分を社会的に存在させることに失敗し、「売れ残った商品」として無惨に放置され、知人は自己を社会化した。 → 「自己の社会化」は「商品化」だろうか。
    • ≪象徴的なもの≫は無意識の問題だったはずだ。知人はそれを「市場」に置きかえたのだと思う。「売れた瞬間」を、彼は量子論における「観測の瞬間」に重ねていた。「売れた」瞬間に「市場=他者の欲望」がどういう状態であったか初めてわかる、というわけだ。
    • 「夢の臍」は「意識の臍」とは別物か。そして「社会の臍」は。僕が意識における穴の感覚にこだわったのは全くのカン違いだったか。僕は単に自己の象徴化を拒否したバカ人間だったか。まさに否定神学者として象徴化を拒否したということだったか。
    • 私は「そのつもりがなくとも」消費者として世界資本主義に参加している。認識をオブジェクト・レベルのせめぎ合いに参加させる緊張感から、僕はどのようなフィードバックを生きればいいか。


  • 「実存の問題と社会システムの問題は分けて考えなければならない」(宮台真司*1
    • 「別の設計図を持った決済システム」はメンタル面に影響を与える社会工学として興味を持ったが。
    • 資本主義が未来永劫にわたって絶対的なものであるならば、あとは微調整に尽きる。どんな微調整が残っているだろう。(経済学と、福祉国家論の問題?)


  • 「そんなことが理解できたって有用情報じゃないんだよ!」 → フローとストック
    • 【情報処理の現場に身を置く】/【ストックされる情報の生産】
    • 対人サービスだって情報処理だ。
    • 意思決定は情報生産にあたる。
    • 情報の問題として自分の人生を考えてみる。インプットとアウトプット。


  • 「女性学」ならぬ「ひきこもり学」はあり得るだろうか。どんな学科や議論を組織すればよいだろうか。
    • 当事者だからといって優秀だとは限らない。
    • 「ジャーナリズムと理論」だけでなく、「オルタナティヴの提示」こそが大事ではないか。動機づけに有効なオルタナティヴがこの世界にあり得ないような気がしている。


  • 現象経験を豊かにしてくれる作品作りを目指しているはずなんだけど・・・。
    • ネガティヴ情報の生産とポジティヴ情報の生産では、あなたはどちらに従事するか。
    • メディアとして機能する個人や作品。(アクセスポイント)




*1:【付記】この発言は記憶によって宮台真司さんのものであると思ったのですが、いま引用先を特定できないので保留にさせてください。この発言がある箇所をご存知の方、お教えいただけると助かります。〔→ id:windvalley さんの情報で確認できました。ありがとう!〕