怒りの文体

 僕がずっと懸念しているのは、ひきこもりの人たちが持っている<怒り>の感情に何らかの社会的文体を与えることはできないだろうか、ということだ。「社会的文体」などというと小難しいが、要するに「自分の部屋で感情を暴発させる」のではなく、何か社会的な手続きを踏まえた形でその怒りを生きられないか、ということだ。
 僕はどうも、ひきこもりの人はいきなり「欲望」に向かうのではなくて、まずは自分の「怒り」に取り組み、そこから社会への回路を見出していく方が順番として有効ではないかと思っているのだが、いかがだろうか。