たびたび書くが、はてなダイアリーを見て回っていると、オタクの人たち(と括ってしまっていいのか分からないが)の豊かさには唖然とさせられる。一方、ひきこもりの人たちの「貧しさ」に、いつも僕は辟易としている。
 昨日の斎藤環さんの番組(人間講座)で、「自己対象」という言葉が出てきていた。人間は成長にしたがって、「自分の分身のような対象」を次々に変遷させてゆく。オタクの人たちは幸運にも、この変遷の結果たどり着いた漫画やアニメといった自己対象が、同時に他者や社会への通路にもなっていたのだと思う。じゃあ引きこもりはどうか。
 ひきこもりの人にとって「自己対象」は、極端に「自分」に局限されているように思う。この状態はとても不毛だ。観察する自分と観察される自分があって、この二つはほぼピッタリ一つになっている。そしてこの「自分」という閉域を侵そうとするあらゆるものにいつもビクついている。「自分」しか対象がないから言葉はどんどん貧困化して、外部に向かって放たれる言葉は「うるさい!」だったり、皮肉なイジケでしかなかったり。「自分」のプライドに閉じこもったままフラフラ浮遊している。オタクの人がその言葉の食欲にまかせて次々と対象を自分のものにしていくのに対して、ひきこもりの人は、自分の鏡像といつまでもにらめっこしている。
 ひきこもりの人にとって「笑い」がすごく難しいのも、きっとこの「閉域」のせいだと思う。滝本竜彦氏は次のように書いている。

 たったひとつだけでいい。どうか君も、心底本気になれる相手を見つけてくれ。
 絶対にこれだけは本当だと思える感情を見つけ、なりふり構わず飛びついてくれ。
 (『ファウスト』vol.1,p.235)

 おちゃらけて「アスカ」との脳内対話に没頭していた彼が突然、「外部」への憧れを叫びのように口にする。ものすごく身に染みる。