斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 3

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ラカン精神分析パラダイム
精神分析にはさまざまな理論があり、非常に多様。 フロイトラカン以外にも、ユングアドラーフェレンツィウィニコットコフート、クライン、カーンバーグ、などなど。 とりわけ「自我心理学 Ego psychology」というアメリカの精神分析一派が、最近「脳」との関連に非常に熱心になっているが、今日の私(斎藤)の話は、そうしたものとはかけ離れている。
最近の精神分析の主流は、脳科学生物学精神医学との接近をひとつの特徴としている。 それは状況上避けられないことだったのかもしれないが、フロイトラカンとはかけ離れてしまった。
フロイトラカン」という言い方をするのは、ラカンという精神分析家は、「自分こそが、フロイトの創始した精神分析のもっとも正統的な後継者だ」と主張したから。(そのことは、ラカン派の人はもちろん認めているが、ラカン派以外の人はそんなことは認めていない。)
ラカンの議論は、医学の領域ではかなりの異端・例外に属するが、思想・批評の領域では圧倒的な影響力をもつ。 スロヴェニア出身のラカン派哲学者スラヴォイ・ジジェクは、思想界のスターのようになっているが、日本語の翻訳本は出るたびにコンスタントに1万部売れているという。 ほんらい治療目的で生まれた精神分析だが、ラカンインパクトは、ちょっと特殊な形で生き延びている。





「欲望が満たされたと思い込んではいけない」

私(斎藤)個人の印象としては、ラカンが臨床で使われるというのは違うと思う。 たしかに直接的に応用する方法論としては弱いかもしれないが、臨床家がある種の倫理的な姿勢を維持する上では、ラカンの教えはまだまだ有効だろう。


ラカン派の倫理として有名な言葉に、「欲望において譲歩してはならない」がある。 ラカン流のもって回った言い方をすると、「罪があると言い得る唯一のことは欲望に関して譲歩することである」。 通常なら、倫理というのは「欲望をいかに抑えこむか」という話のはずだが、ラカンでは逆になっている。 つまり、「欲望を追求するのが倫理である」。


ラカンは、私たちが漠然と思い込んでいる常識的な領域において、さまざまな逆説を口にする。 主体があると信じられているところでは「主体は存在しない」といい、欲望とは個人のものであると言いたい人の前では「欲望とは他者の欲望である」という。
欲望を追求せよというのは、私(斎藤)なりに翻案すれば、「中途半端な幻想によって、欲望が満たされたと思い込んではいけない」ということ。 「勝ち組」といった世俗的な幸福にとどまるのは錯覚にすぎない、「もっと先に行きなさい、自分の欲望をとことん追求しなさい」。 半端な幻想に満足している場合ではないよ、と。――そう考えると、ある意味ラカン精神分析は、いちばん強烈な幻想破りの機能を持っている、と言えるかもしれない。


いま、「ニセ科学」という言葉が流通していて、精神分析ニセ科学に分類されることがある。 通常の自然科学的な意味では、精神分析には科学の資格はない。 再現性・予見性・反証可能性が期待できないから。 にもかかわらず私(斎藤)が固執するのは、ひとつの倫理基準として。 とくに人文系の物の考え方がはまり込みやすいさまざまな幻想に対する解毒作用としては、もっとも強力な立場を提供しているだろう。






ラカンの認識のトポロジーである三界(象徴界想像界現実界)について大まかに理解すれば、ベイトソンラカンを対比することはある程度可能かと思う。


簡単に言えば、「象徴界」は言葉、「想像界」はイメージ、「現実界」は認識不可能





象徴界

 象徴界は言葉がおりなす複雑なシステムである。 言葉は、より正確にはシニフィアン」のことであり、これは言語の音韻的な側面、言い換えるなら、意味やイメージではないほうの側面を指している。 その作用は、人間生活の全般に及んでおり、意識される部分もあるにはあるが、無意識の部分が大半である。 (斎藤氏のレジュメ、強調は引用者)

人間の無意識と象徴界はほぼ等価と考えられる。


ラカン理論は、言語を中心として構築されている。 「人間とは語る存在である」(ラカン)。 語ることができる存在はすべて人間である。 言葉を換えれば、「象徴界に参加しているのはすべて人間である」。 極端で反駁しにくい立場といえる。


子供の発達段階からしてそうである。 「去勢」という、ラカン精神分析で非常に重要な概念があるが、これは「言葉をしゃべれない子供が、言葉を覚えていく過程のこと。 なぜ去勢かというと、乳児は、母親との境界もあいまいなまま、密着した母子関係の中で生きている。 密着して母親が万能に見えていた状態から、「母親は万能ではない」と発見して打ち砕かれる瞬間。 比喩的には、父親にペニスがあり、母親にペニスがないことを発見すること。 人間にとって大事な「ペニス」というものが、母親にはない(万能ではない)。 それが去勢のひとつのきっかけである、と。
ラカンの理論では、言葉の後ろにあるのはファルス(象徴化されたペニス)の機能であり、これが究極のシニフィアン(究極のシンボル)。


赤ん坊が言葉を獲得していく段階にはもうひとつあって、これはフロイトの「快感原則の彼岸」という論文に描かれる。 フロイトの孫が、母親(フロイトの娘)のいない間に、糸巻きを放り投げてまた引き戻す「Fort−Da遊び(いないいないばあ遊び)」という一人遊びをした。 ここでフロイトは、「幼児は、不在の母親の代わりに、その糸巻きをコントロールしているのだ」と思い至る。


赤ん坊の世界観においては、目の前に現前するものしか存在していない。 目の前にないものは存在しない、あるいは死んでいる。 そこを補うのが言語。 ▼いま目の前にない物や人はおそらく存在し続けているが、それは仮説でしかない。 なぜその仮説が信じられるかというと、言葉があるから。

 「母親の存在」の欠如を代理すべく、母親のシニフィアンを獲得すること。 これは、存在の欠如を、欠如の記号、すなわちシニフィアンという痕跡(しるし)に置き換え、「不在」と「現前」の統合をはかることである。 人間はそうすることで、不在のもたらす不安を、さしあたり持ちこたえることができる。 欠如している物事をシニフィアンの力によって、概念のレヴェルまで引き上げるということは、「事物の殺害」*1と呼ばれることもあり、これは「死の欲動」と関連している。 以上のことからわかるように、象徴的なものとは、それが占めている場所において欠けているものである。 それは基本的には失われた愛の対象、欲望の対象を指し示している。 (斎藤氏のレジュメより、強調は原文で下線)



言語を獲得して初めて人間になる。 言い換えれば、言語を獲得する前の子供は人間ではない。 フロイトに「子供時代はもうない」という言葉があるが、この子供時代というのは「言葉を獲得する前」ということで、その時代の記憶は残っているわけがない。 三島由紀夫は「自分が生まれたときの記憶がある」と言い張っているが*2、それはフロイトラカン的には「事後的に捏造された記憶」を信じているにすぎない。

 象徴界には穴が開いている。 これこそが「ファルス(ペニス=実在そのものの究極の象徴)」の位置であり、本質的には接近することもできない、究極の意味内容を独占している。 (レジュメより)

    • 【上山・注】: 「ファルス」は、よく論争の焦点になるはずだが、今回の講演ではほとんど説明がなく、ジャーゴンとして提示されただけだった。 口頭では「シニフィアン中のシニフィアン」と言い直されたが、これだけではよくわからない。





■斎藤氏のレジュメに無造作に引用・列記された、ラカンの発言 (強調は引用者)

 主体にとって構成力を持っているのは、象徴界の秩序である
 人間は象徴界の秩序に従って考える。 なぜなら彼は、彼自身の存在の中で、最初にそこに連れて行かれるのだから
 人間は象徴界の秩序の中に、主体として、彼の同類との想像的な関係に特有の裂け目を通じて入ることが出来る
 人間の象徴界の秩序への参入は、彼自身がパロールの根源的な隘路を通る以外の方法では可能にならない
 社会の構造は象徴的である。 個人は正常であればそれを現実の行為のために利用する。 精神病質者であれば、それを象徴的な行為として表現する。
 「父の名」は、象徴的な機能の支点として振る舞う
 象徴秩序の中では、空虚さは充満に等しい
 分裂病患者にとっては、すべての象徴が現実である
 症状は象徴的である
 象徴秩序は、言語によって構成されている
 欲求不満と排除との間には、象徴界現実界の相違のすべてがある
 象徴的な機能は象徴的決定のもとに従属している
 象徴的な決定は、第一に統辞の行為である
 人間は、彼の誕生に先立ち、あるいは彼の死を越えて、象徴の連鎖に取り込まれている
 象徴秩序は、それ固有の道具によってでなければ接近できない
 夢は常に、象徴的に分節されている
 象徴界想像界は、現実界との関係の中で相互を区分する








*1:「Le mot est le meurtre de la Chose.」

*2:仮面の告白 (新潮文庫)』冒頭

想像界

視覚的な「イメージ」とともに、言葉の「意味」の側面。
言葉の「意味」を担っているのは想像界であり、象徴界ではない。 【象徴界は純粋なシニフィアンの作動。 言葉の「音韻的な側面」のみの無意味な作動。】


もう一つありがちな誤解として、「象徴界は社会のことである」という言い方がされることがあるが、単純にそうは言えない。 部分的には社会の機能を課されているかもしれないが、社会の機能の大半は想像的なものになっている(cf.『想像の共同体』)。

 鏡像段階において、人間は、まだばらばらの状態であったみずからの身体イメージを、鏡の中にはじめて全体的・統合的なものとして発見し、そこにおいて自己イメージを先取りしようとする。 (斎藤氏のレジュメより)

統合的な自己イメージを獲得する前の子供の自己イメージは、寸断されている*1。 このバラバラな状態を革命的に修正するのが鏡。 鏡に向き合って「これが自分だ」と認識する瞬間に、子供は小躍りして喜ぶ。


フロイトの発達段階論(口唇期・肛門期・男根期)は、直接観察できる話ではなく、きわめて抽象的。 同様にラカン鏡像段階も、「人間が自己イメージを、鏡像的なものを媒介として獲得する」という抽象的な話であって、実際には家の中に鏡がなくても子供は育つ。


人間は自己イメージの獲得を、あまりにも早い段階で、目によって(視覚的に)なす。 自分の身体感覚を視覚によって獲得する。 ここにアンバランスが生じる。 人間は認識の90%以上を視覚に頼ると言われるように、視覚偏重。 →想像界偏重

 しかし、この行為は、本当の自分とは左右が反転した形のイメージに自分を同一化し、それが本当の自分ではないということを忘れていく過程でもある。 ここにおいて、最初のナルシシズムが成立するが、このようにナルシシズムとは、必ずしも自分自身を直接に愛することではない。 それは、自分によく似た他者へと向けられた愛のことである。 (レジュメより)

最初にこの“嘘”を引き受けたおかげで、人間はいろいろなものに自己を投影することができる(同一化)。 動物や映画の登場人物に感情移入したり。(通常、動物は鏡像を理解できない。)

 自我もまた、想像的なものである。 自分自身について語ることは、このように、自己イメージが根本的に不正確なものでしかないことを考えるなら、ほとんど不可能なことである。 むしろ精神分析は、こうした自己イメージがはらんでいる不確かや矛盾をクライアントに気づかせることで、象徴的な次元へとクライアントを導くことを目指すことになる。 (斎藤氏のレジュメより、強調は引用者)








*1:cf.「寸断された身体 corps morcelé」

現実界

認識不可能の領域。 精神病の領域。

 象徴界に出現しなかったものが現実界に出現する、という言葉は、なによりも精神病の幻覚妄想を意味している。 象徴界を成立させるのが父ならば、現実界を具現するのは母である。
 現実界は、たとえば耐え難い外傷との出会い、という形で、象徴的に反復される。 (レジュメより)

精神病においては、象徴界が機能不全を起こしている。
象徴界には穴が開いている」とか、ラカンの有名なキーワード「対象a」なども、現実界と関連が深い。つまり、部分的には認識できるが、それ自体は認識の対象ではない。 人間の言語では接近できない。








それぞれに説明限界が存在する。 精神分析にできるのは、象徴界について記述することまでであって、ことが現実界に及んでしまうと、記述は不可能になってしまう。 たとえば、「文脈の認識」であるとか、「学習がなぜ起こるか」といったことは、精神分析の理論では説明できない(「現実界で起こる」としか説明しようがない)。 パソコンの喩えでいえば、これらは全てハードウェアの機能であって、心を扱うラカンの議論では記述できない。



補足

クオリア説の一つの限界は、「鏡像をどう認識するか」にもかかわってくる。 鏡の「鏡らしさ」、その中に写っている像の「像らしさ」、それを同定する過程に関する認識、など。 「合わせ鏡」という言葉があるように、鏡像というのは、メタ認識に向かうとそこに鏡像無限が起こり得る。 そこをどうやって脳のレベルで認識できるのか。


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