斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 2

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ベイトソンの学習理論
「心脳問題」については私(斎藤)の思考実験を含むので聞き流してもらってもいいですが、ここから先はとても役に立つ思考ツールの紹介になります。
ベイトソンは、生物的主体(Organic Subject)としての人間について、より多くのことを研究した。 それゆえ彼は人間とイルカを区別せず、「どちらも学習ができるし、言葉も使える」という(これについてはやや限界を感じる)。 しかし、彼の学習理論は非常に洗練されたもの。


ベイトソンは学習を5種類(学習0〜4)に分類し、だんだんメタレベルに繰り上がる仕組みになっている(階層的な学習理論)。 私(斎藤)はここから、「学習は脳のレベルでしか起こらない」「心のレベルでは学習は生じにくい(生じたとしても維持できない)」と思いついた。





ゼロ学習

刺激と反応が一対一対応で、変化がまったく起こらない状態。 機械的な運動。 自動人形や自動ドアみたいなもの。 「試行錯誤によって修正されることのない(単純または複雑な)一切の行為が成り立つ領域」。 たとえば、統合失調症の常同行為、強迫性障害の強迫行為など。

 ベイトソンはここでフォン・ノイマンゲーム理論における「プレイヤー」について言及し、失敗が出来ず、そこから学ぶこともなく、つまり試行錯誤しない「プレイヤー」の反応はゼロ学習であるという。 (斎藤氏のレジュメより)






《 学習 I 》

反応がひとつに定まる定まり方の変化。 古典的な「パブロフの犬」など。 慣れの形成過程、抑制過程など。 実験心理学のラボで最もふつうに見られる学習。

 ベイトソンはここではじめて、「コンテクスト」について言及する。 「学習 I」は、同じコンテクストが繰り返しあらわれることを前提としている。 「コンテクスト」の概念は非常に重要であり、コンテクストをヒエラルキー構造をなすものとして受け入れるか、コンテクスト概念をいっさい捨てるか、二つにひとつであるという。 (レジュメより、強調は引用者)

    • ※「コンテクスト・マーカー」・・・・コンテクストの違いを認識するためのシグナル、ラベルであり、具体的には「空襲警報」「催眠術の小道具」など。 ▼「コンテクストのコンテクストのマーカー」の例: 芝居の中で殺人事件が起こっても、誰も本物の警察に通報しない。 劇中の人間関係(コンテクスト)は、「芝居」というコンテクストの中に置かれていることが、ポスターや劇場というコンテクスト・マーカーで示されている(コンテクストの階層構造)。






《 学習 II 》

 ベイトソンの学習理論でもっとも理論的な貢献度が大きいのは、この「学習 II」の発見である。 それは「学習 I の進行プロセス上の変化」と定義される。 「学習 I」が連続的に起こるとき、学習効率が向上し、学習の速度がはやくなる*1。 (レジュメより)

 学習する主体は、刺激と反応を覚えこむだけではなくて、同時に「学習のコンテクスト」をも学習している。 「学習の状況が何を意味しているか」についての理解。 学習のメタレベルの学習。 経験の連続体が区切られる(分節化)、その区切り方(コンテクスト)の変化。

 「学習 II」では、そのさいに使われるコンテクスト・マーカーの変化を伴う。
 ここではとくに「コンテクスト=分節化」という点を強調しておきたい。 (レジュメ)

たとえばパブロフの犬は、肉の出てくる合図である「ベルの音」を、周囲のノイズと識別=分節化しなければならない。 意味の発生は、「コンテクストの学習=分節化」に全面的に依存する。


まだ言語の必要はない(たとえば「ベルと肉」は、「記号」の段階)。 言語は多義的(記号は一義的)。 動物は一義的な記号まではできるが多義性のある言語は無理。 ▼これは人工知能にとっても重要な問題。 コンピューターには、その場の状況(コンテクスト)を理解する力がない(フレーム問題)。

    • たとえばワープロには「文脈変換」という機能があるが、これは実際にはパターン認識であり、コンテクスト認識とは別。
    • コンピューターは「危険物を除去せよ」という命令を自分では適切に遂行できない。 「何が危険物であるか」は文脈によって異なる(文脈依存的である)ため、コンテクスト認識のできる人間から見ればあり得ないような初歩的な判断ミスをし、過剰に排除してしまったり、まったく動かなかったりする。
    • 自動翻訳も、翻訳には「コンテクスト理解」が不可欠であるため、人間レベルに達するのは無理であるか、あるいは少なくともまだ当分は足踏み状態だろう。 コンピューターには、文脈理解が完全に欠けている。


 ベイトソンは、「なぜ学習 II が起こるのか」、そのメカニズムにはまったくふれていない。 重要なのは、コミュニケーションの効果としての「学習」に階層構造があり、そこからコンテクスト概念が必然的に派生するということだ。 この前提はきわめて堅牢なもので、私によるコンテクスト論の中核をなす。 (略)
 「学習 II の学習内容が、それ自体を妥当化する働きを持つ結果、このレヴェルでの学習は一度なされてしまうと、根本から消し去ることはほとんどできなくなる」。 これは学習 II の過程が、一種の自己言及的かつ自己組織的作動によって維持されていることを含意している。 (斎藤環氏の配布したレジュメより、強調は引用者)






*1:【斎藤注】: たとえば語学の勉強でも、初歩の段階ではなかなか語彙が覚えられないが、ある程度進んでくると、どんどん覚えられる。

《 学習 III 》

 学習IIの進行プロセス上の変化」であり、選択肢群がなすシステムそのものが修正される変化とされる。 (レジュメ)

「コンテクストの学習」を起こしたり、起こさなかったりを自在に調節できる。 学習 II の起こり方を調節できる状態。 かなりハイレベルといえる。
現象学で言うエポケー(現象学的還元)が可能であるとすればこのレベル。
人間のみがなし得るレベルであり、このレベルの学習を可能にしているのは「記号」(一義的)ではなく、言語(多義的)だろう。


ダブルバインド」は、母子関係のように、「そこから抜け出すことのできない関係の中で、矛盾したメッセージを受け取って板挟みになること」。 矛盾したメッセージであっても、そこから自由に抜け出せるならばダブルバインドとは言わない。
【例】統合失調症の若い男性のもとに母親がお見舞いに来た際、息子が肩を抱こうとしたが、母親は身を硬くした。 息子は「嫌われた」と思って身を離したが、母親は「私のことが嫌いなの?」と責め立てた。 つまり、言葉で発しているメッセージと、体で発しているメッセージ(メタ・メッセージ)が矛盾している。 ▼我々であれば、言葉よりはコンテクストを重視するため、言葉の上でどんなにいいことを言っていても、態度が悪ければ「これは嫌われているな」と判断する。 統合失調症の場合、「刺激」のレベルと、「刺激のコンテクスト」のレベルの階層性を理解できず、こうした状況に容易に混乱する。 それゆえ統合失調症の患者さんに対しては(というか、一般に人に親切にする場合には)、メッセージとメタメッセージを一致させ、わかりやすい態度を取る必要がある。
ダブルバインド統合失調症の「原因」とする考えはもはや支持されないが、統合失調症の患者さんが、こうしたダブルバインド状態に弱いことは事実。





《 学習 IV 》

仮想的なもの、フィクション。

 「学習 III に生じる変化」であるが、ベイトソンは「地球上のいかなる成体の生物もこのレベルには達しない」とみる。 (レジュメ)

「進化のプロセス」はこのレベルかもしれない。 おそらくこれは、脳の中で蓄積されたものが、体全体や脳組織そのものを作り変えてしまうようなレベルの変化。
脳は可塑性が高い臓器なので、機能分化のレベルでこの「学習 IV」レベルの変化が起こっている可能性はまったくは否定できないだろう。








ベイトソンの学習理論は、OS(Organic Subject)の作動に関して、非常に適切な記述になっている。 「なぜ学習が起きるのか」、「コンテクストはどのように理解されるのか」については、ベイトソンはたいへん豊かな貢献をなしている。 しかし言語の作動や、人間と動物はどう違うのかに関しては、彼の議論と記述には限界がある。


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